博多へ来て数年で自分の店を開業した源音吉氏は、高度経済成長の波に乗り、「お客もスタッフもほめる」というビジネス哲学で次々と規模を拡大していった。持続的に当たり前のことを当たり前にやる。信念がなければすぐに現実に流されてしまう。今、源氏は、「一途一心、一念一行、一心不乱」という言葉を大切にし、また、その言葉をエールとして、親しい人たちに贈っている。その原点とは――。
<「お七夜まで持たない」>
源氏のふるさとは愛媛県宇和島市。父・儀平造と母・クニエの8番目の子として昭和18年8月26日に産声を上げた。生まれた時は超未熟児で、産婆からは「お七夜までもたない」と言われたという。小さな体であったため、幼い頃はいじめにもあった。幼くして父を失った源氏とそのきょうだいを母が一人で育てていた。その頃の「音さん、どんなことがあっても差別をしてはいけませんよ」という母の教えが源氏の胸に刻み込まれた。
優しい母の愛に育まれた源氏は、中学2年生の頃に一念発起する。冬の海に飛び込み、風邪をひかない体を作り、山に行って頭を木に打ちつけ、叩かれも負けない根性をつけた。さらに相撲部に入部して徹底的に体を鍛えた。その結果、源氏はたくましい青年へと成長する。しかし、いくらケンカに強くなっても弱い者いじめはしなかった。母から教えられた人を思いやる心を、鍛えられた体の芯の部分にしっかりと抱いていた。
学卒後、海のまちに育ち、海が好きだった源氏は神戸へと渡り、船乗りになった。鉄板や石炭を運ぶ570トン、27人乗りの貨物船である。船員のなかでもひと際若かった源氏がやった仕事は、掃除や調理の手伝いといった下働き。一所懸命に働く源氏は、船長以下、船員の皆から可愛がられた。大海原の夜、頭上には満天の星空、船体に寄せられる夜光虫の輝き、幻想的な光景が、源氏のロマンあふれる豊かな表現力を育んだ。
しかし、船乗りとしての暮らしも4~5年で終わった。今のように通信手段が満足にない時代、ひと度海に出れば、陸との連絡は取れなくなる。恋人の死に目に会えないという悲運が源氏に訪れた。悲しみにうちひしがれた源氏は、海の仕事をあきらめた。それからは、神戸の歓楽街・三宮でバーテンダーとして働くようになった。明るく前向きに、そして懸命に働いたことが、博多における成功へとつながっていく。
長丘 萬月 (ながおか まんげつ)
福岡県生まれ。海上自衛隊、雑誌編集業を経て2009年フリーに転身。危険をいとわず、体を張った取材で蓄積したデータをもとに、働くお父さんたちの「歓楽街の安全・安心な歩き方」をサポート。これまで国内・海外問わず、年間400人以上、10年間で4,000人の風俗関係者を『取材』。現在は、ホーム・タウンである中洲に"ほぼ毎日"出没している。
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