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正しい政治経済を問う(7)~最年少副議長に就いた赤司泰一・筑紫野市議
連載コラム
2013年7月23日 07:00

<きちんと人と付き合っていくのが政治家である市議の仕事>
 1996年、両親に連れられ、新進党から衆議院選に出馬予定だった山崎広太郎氏の選挙事務所を尋ねたのが、政治の世界に触れた最初。赤司氏は当時、家業の材木屋を手伝いながら、プロのミュージシャンになることを夢見ていた若者だった。山崎氏に面会したときは金髪にピアスという出で立ち。てっきり追い返されると思っていたが、「しばらくそばに付いてみろ」と選挙の手伝いをすることになる。「当時の自分はただの世間知らず。政治家なんて汚い奴しかいないと思っていた。秘書と言うか、書生として出入りしていた。スーツも着なかった」。ところが、山崎氏はあえなく落選。浪人となった山崎氏だが、引き続き赤司氏を秘書として抱える。2年後、山崎氏は福岡市長選に出馬。当選を果たす。「山崎氏のそばにいたこの2年間が私の政治家としての原点」と振り返る。

 山崎氏の市長当選後、秘書の仕事を離れ、家業の手伝いに戻る。このとき、夢はミュージシャンではなく、政治家に変わっていた。「住民に一番身近な政治家」である地元筑紫野の市議を目指し、政治活動や勉強に明け暮れる日々を送る。ところが2002年、家業が倒産。市議挑戦を諦めかけるが、知人に借りた100万円を元手に、民主党公認候補として出馬に踏み切る。「我々若い世代の責任を果たそう」。自転車で走り回りながら訴え、当選を果たした。「本当に何もなかった人間」が地域の代弁者に生まれ変わり、新人市議として、地場産業の育成、行政評価システムの導入などを手がけた。

akasi.jpg 1期3年目の06年、1つの転機が訪れる。恩師の山崎氏が3期目の福岡市長選に挑もうとしているとき、民主党県連がライバル候補の擁立に動いた。当時の民主党代表は小沢一郎氏。「豪腕」は、地方選挙に対してもトップダウンで物事を決めていた。「山崎氏の否定は私自身が否定されるのと同じ」。赤司氏は民主党県連に出向き、幹部に翻意を迫った。だが、思いは叶わず、迷った末、離党を決意する。悪い流れは続き、山崎氏は落選。自らの離党と恩師の敗戦に「これ以上ないショックを受けた」。
 ショックが癒える間もなく、無所属で2期目の市議選に臨む。1期目の評価をともなう選挙だったが、前回を上回る票を得て当選。2期目も終わりにさしかかった頃、自由民主党に入党する。「一度離党をした身。一生自民党を離れないという気持ちで決めた」と一蓮托生を誓う。

 3期目となった13年5月、同市議会最年少で副議長に就任。「お飾りの議長、副議長はやめよう」を合言葉に、「魅力ある議会づくり」に取り組む。
 市議も長くやるとしがらみができて、思うような政策を実行できないのではないか――と、そう問うと、「しがらみとは人と付き合うこと。しがらみのない政治などあり得ない。『しがらみを断つ』と公言する政治家がいるが、ただのカッコつけ」とバッサリ。「しがらみと言うと聞こえが悪いが、きちんと人と付き合っていくのが、政治家である市議の仕事。だから難しい」。
 これが山崎イズムなのか定かではないが、経験を重ねた1人の政治家としての信念の込められた言葉であることは疑いようがない。

【大石 恭正】

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