平成紫川会小倉記念病院に"延吉王国"を築き、君臨してきた延吉正清ドクターが病院長・理事長の退任を表明してから1年以上が経つ。ワンマン体制への批判、向精神薬レンドルミンの不正入手疑惑をきっかけに高まった病院改革の動きを抑え込み、権力の椅子に居座ることに成功した。延吉氏にとって、手中にした"勝利"は、美酒というにはほど遠かった。すべての権力は腐敗し、小心者の権力者の心に平穏は訪れない。
<2つの理事会が1つになった?>
2013年6月25日のことだ。小倉記念病院の朝礼で、田中明病院長代行が「2つの理事会が1つになって、問題が解決した。延吉院長が院長を辞めることになった」と語ったという。
2つの理事会というのは、1つは、延吉氏理事長退任後のほかのメンバーで元の理事会を継承する改革派理事会である。もう1つは、退任表明した延吉氏が選んだ新理事会(延吉派理事会)である。
継承・改革派理事会の小川章理事らが延吉理事長退任の確認を求めた訴訟が、福岡地裁小倉支部で係争中であり、延吉派理事会が正当かどうか法的な争いがあるが、法人登記簿上は延吉派理事会が登記されている。登記されている理事会のメンバーは、延吉正清理事長以下、清原雅彦氏(弁護士)、三原晴正(苅田商工会議所会頭)、坂田隆造(京都大学大学院医学研究科教授)、森山寧慈(前TOTO副社長)、下川辺正行(戸畑共立病院院長)、南本久精(元北九州市病院局長)の7人だ(ただし、三原氏は、理事を辞めたとしている)。清原弁護士は、延吉氏が辞任を表明した後、病院改革の動きをねじ伏せて理事長・病院長の椅子に戻ることに成功させた功労者である。
<後任の病院長、理事会に姿なく>
田中病院長代行の挨拶内容は、関係者の証言と微妙にズレている。
延吉氏は、辞任表明を翻した後、「後任の病院長が京大医学部長から推薦され、後任が来たら辞める」と主張してきた。
「辞めることになった」というなら、後任が決定されたことになる。ところが、関係者の話によれば、後任決定が宙に浮いていることがわかった。
その前日の6月24日。財団法人平成紫川会の登記簿上の理事会が開かれた。関係者によれば、この日は、延吉氏が正式に病院長を辞め、後任の病院長に内定しているM医師が出席するはずだった。ところが、理事会に、そのM医師の姿がなく、次期病院長を決められなかったというのだ。
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