福岡縣護国神社境内、西の木立内に新しく立った像がある。「福岡県特攻勇士之像」だ。建立にあたったのは、特攻勇士之像建立福岡県委員会。2012年12月8日、福岡県特攻勇士之像奉納建立除幕式・式典、直会を行ない、今後は、毎年5月4日に、福岡縣護国神社春季例大祭にて、慰霊祭を行なうという。
<今も残る痛恨の念>
同委員会の長、菅原道之氏((株)未来図建設会長)は、日本陸軍の現役将校および陸士陸幼在学中の者、並びに陸上自衛隊幹部出身者の会、「福岡県偕行会」会長をはじめ、さまざまな会の長を務める。軍人としての教育を受けた菅原氏の胸中には、国を守るために玉砕できなかったことへの痛恨の念が、今も残っている。
今も「私は軍人だ」という菅原氏。生かされた命を大切にはしてきたが、戦死した仲間のことを思うと、なぜ生き延びてしまったのだろうということしか思えないそうだ。
空軍付けで空中戦に加わり、特攻隊の本土決戦要員として終戦を迎えた。もともと空軍を志願していたが、倍率が高く陸軍士官へ進んだ。しかし、卒業間近に人馬転倒で骨折し入院。卒業はできたものの戦地には行けず、内地で会津若松の歩兵155聯隊に聯隊旗手として赴任した。ところが、思わぬことで空軍へ転科することになった。航空偵察の道に進んでいた、聯隊長の息子が急死したのだ。気がつけば、嘆き哀しむ聯隊長に「私が息子さんの代わりに航空偵察の道へ進みましょう」と申し出ていた。何度か引き止められたが、やがて下志津学校で航空偵察を学ぶようになり、卒業後、支那派遣軍(第5航空軍)の飛行第82戦隊付となる。
「せっかく念願の航空兵になれたのに、戦死できなかった。私は役立たずの軍人ですよ」と菅原氏は苦笑する。
玉音放送は聞かなかった。ちょうど飛行機に乗って偵察に出ていたのだ。地上に降りて整備技師から聞き、終戦を知った。急いで仲間内で会議を開き、このままウラジオストックに突っ込んで玉砕しようと決めた。そこには偵察機しかなかったので、爆薬を調達し整備士に詰め込んで戦闘機に仕立て上げようとした。
ところが、そこに戦隊長と中隊長が駆けつけ、長時間にわたり懇々と説得された。血気盛んな若い隊員たちは反発した。が、最終的に思いとどまったのは、戦隊長の「命令!」の一言だった。結局、戦闘機から予備の燃料タンクを抜いて9人乗りにし、何度も往復して戦地を離れた。
「だからこそ、今、こうして生きているのです」と、菅原氏は微笑む。生きて、戦死した仲間のために、一所懸命に慰霊を行ない、何とか日本という国の良さを、後世に伝えていかねばと尽力しているのだ、と。
<異国で大切にされている特攻隊の非凡な魂>
戦後、日本が経済的に立ち直っていく様には目を見張るものがあった。そして68年にわたり、平和な時代を築いている。ただその影で、当時を知る者にとっては、平和を願い、「命よりも国を守ることに生きた戦士たち」の生き方が、不当に扱われているという思いが拭えない。たしかに戦争、そして特攻戦そのものは、未来に残せない。しかし、軍人としての教えに準じた若者を責められない、と考えている。
「福岡県特攻勇士之像 奉納建立報告」パンフレットには、次のような記述がある。
「フィリピンのマバラカット旧基地跡(マニラ市から70キロ期待にあるマバラカット町の中心部から2キロ位の東側)には碑が有り、左にフィリピン国旗、右に日本の国旗、真ん中に白ペンキで日本語で「第2次大戦に於いて日本神風特別攻撃隊機が最初に旅立った飛行場」とある。大東亜戦争が終わった途端、新しい波に乗った日本人の間では「特攻」は侮辱の対象となり、特攻と言えば、無謀・無思慮・非人間的と語られ、空しい自殺などの否定的価値しかないと言う人も多かった。
然し、この碑を建立したのは日本人ではない。フィリピンで「カミカゼ記念協会」マバラカット町及町民・観光局及アンヘルス市土木局などのフィリピン人であり、土地の一角をこのために提供した人も居られるのだ。
今尚フィリピンの人々の胸底には反日感情があるやに言われるが、この現象は何としたものか。なぜだろうか。ある関係フィリピン人の言を借りると、「烈々たる祖国愛に燃え敢然として身命を国家に捧げた事実をすべての民族の人に永遠に記憶にとどめるためであり、政治的な親善関係のためではない。特攻隊員の偉大なのは、特攻隊員として幾月もの訓練期間を通じて、その終局の使命は明らかに死への突入であると自覚していたことだ。その長い訓練期間の冷静さと熱意とを最後まで堅持したことが彼等を非凡の人間にしたのだ。」と」
戦争そのものは否定する。しかし、殉死した若者の魂は、異国の人たちでさえ大切に弔ってくれている。この思いが、やがて、福岡県に特攻勇士之像を建立するというかたちになって実を結ぶことになった。
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