1960年代から続くカンボジアの動乱は、多くの犠牲を出し、その後の発展を阻害する大きな要因となった。75年から79年まで続いたポル・ポト政権による虐殺を逃れ、日本へわたったカンボジア難民も多い。本稿の主人公、ソム・カンナリット(Som Khannarith)氏もその1人。動乱が終息した後、カンナリット氏は通訳の立場から日本とカンボジアの架け橋として貢献。現在は、新たに設立したSoh Sei Corporation,ltdのCEO(最高経営責任者)として、日本企業のカンボジア進出をサポートする事業を展開している。激動の時代を経て、日本とカンボジアの「架け橋」となった同氏がどのような経験をし、そして今、両国間ビジネスの将来をどのように考えているのか――。
<身分がわかれば僕の家族は殺されていた>
ソム・カンナリット氏は、1962年1月2日、カンボジアとベトナムの国境近くにある、プリーウェイン州で生まれた。70~71年頃、戦火を避け、一家で首都プノンペンに避難。国道がポル・ポト兵の制圧下にあったため、危険を避けるため小さなボートで川をのぼったという。プノンペンに1~2年滞在した後、タイとの国境に接するバタンバン州へ移った。ポル・ポト政権が終焉を迎えた79年、カンナリット氏の一家はタイの国境の方へとさらに戦火を逃れ移った。そして国際赤十字社の難民キャンプを経て、難民として日本へわたった。日本へ着いたのは、1980年9月23日のことである。
「ポル・ポトの時代は、学校の先生やアメリカ軍関係者が一番嫌われ、それがわかると殺されていました。私の家族は、私が生まれた頃、ベトナムの国境近くに住んでおり、ポル・ポト時代もタイの国境近くでしたから、近所の人間が経歴を知らず、素性が隠せたのです。もし、身分がばれていたら殺されていたでしょう」。
18歳で来日したカンナリット氏は、神奈川県大和市の難民受け入れ施設で、日本に滞在するために必要な教育を受けた。4カ月ほど同施設にいた後、そこで紹介されたカメラの三脚を製造するベルボン(株)(本社:東京都中野区)に就職。昼は同社で働き、夜間学校に通った。「当時、日本語がまだよくできませんでしたから日本語学校、そして専門学校へと進みました。学費は自分で払っていましたので、生活がたいへん苦しかったのですが、自力でなんとかしたいという思いが強かった」という。
1年ほどベルボン社に勤務し、少し日本語が上達したカンナリット氏は、超音波洗浄機をつくる会社へと転職した。
「メガネやカメラのレンズを洗って乾燥させる機械をつくる会社です。来日したときは栄養失調で体が弱っていたため、力仕事に将来的な不安を覚えました。それで何か技術を身に付けようと思いました。正直言って、まだ18~19歳でしたから、遊びたいという気持ちもありました。しかし、勉強、遊び、仕事の3つは成り立ちません。私は遊びを捨てたから、日本語を話せるようになりました」。カンナリット氏は、そこでも働きながら、技術を身に付けるため、夜間学校に通った。
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