7月21日に投開票が行なわれた参議院選挙は、事前の予想通り、自民党の圧勝に終わった。選挙期間中、安倍晋三政権の経済政策「アベノミクス」への評価、原発再稼働の是非、憲法改正問題等を中心に各党の主張を展開したが、国家の基本である安全保障問題が選挙の争点にならなかったのは、非常に残念だ。時代は違うが、日本の国難・安全保障上の危機に接し、果敢に立ち向かった北条時宗のような人物が、今回の参院選で、何人当選しただろうか。一部を除けば皆無に等しい。
北条時宗は、5代執権・北条時頼の嫡男として建長3年(1251)5月15日に生まれた。時宗には、生まれながらにして強い期待が集まっていた。9歳で小侍所別当、13歳で執権を補佐する連署となり、18歳の若さで第8代執権に就任した。
時宗の生き方を通じて、政治家のあるべき姿について考えてみたい。
<政治家としての統率力>
元の初代皇帝フビライ汗は、日本を属国にしようと、朝貢を求める国使をたびたび送ってきた。これに対して、鎌倉幕府の執権・北条時宗は、元の国使に対しては常に強硬な態度を示し続けた。
これには理由があった。滅亡した宋から逃げてきた僧たちの情報をもとに、日本に襲来するにしても10数万以上の軍勢は1度に動員できない。しかも元軍は東シナ海や玄界灘を渡ってくるため、途中で難破する可能性もある。日本にたどり着いたとしても、軍勢は疲労しているに違いないという情勢判断をしていたからだ。
その後、文永11年(1274)と弘安4年(1281)の2度にわたり、日本軍は襲来した元軍を撃退する。日本戦史のなかで、日露戦争の勝利と並ぶぐらい大きな意味を持つ勝利であった。当時、世界最強と恐れられていたロシアのバルチック艦隊を、日本海海戦で全滅させたときの連合艦隊司令長官は東郷平八郎である。その後、ポーツマス条約を結び、ロシアから賠償金は取れなかったものの、南樺太の割譲を受けた。もし、日本がロシアに負けていたらどうなっていたのか――。
元寇でも同じことが言えるだろう。2度にわたり元軍を敗退させた最大の要因は、暴風雨(台風)によるものだが、蒙古襲来に際し、時宗が日本全国の武士団を統一したことも、勝利に繋がる大きな要因であった。
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■濱口和久氏講演会のお知らせ
9月5日(木)午後5時から午後7時まで行なわれる第2回マックスクラブ講演会で、濱口和久氏が政治をテーマに講演します。演題は「本当にあった永田町怪談『日本の政治、ここがアブナイ!』」。詳しくはコチラ。
<プロフィール>
濱口 和久 (はまぐち かずひさ)
昭和43年熊本県菊池市生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、民主党本部幹事長室副部長、栃木市首席政策監などを経て、テイケイ株式会社常務取締役、国際地政学研究所研究員、日本政策研究センター研究員、日本文化チャンネル桜「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、拓殖大学客員教授を務める。平成16年3月に竹島に本籍を移す。今年3月31日付でテイケイ株式会社を退職し、日本防災士機構認証研修機関の株式会社防災士研修センター常務取締役に就任した。『思城居(おもしろい)』(東京コラボ)、『祖国を誇りに思う心』(ハーベスト出版)などの著書のほかに、安全保障、領土・領海問題、日本の城郭についての論文多数。5月31日に新刊「だれが日本の領土を守るのか?」(たちばな出版、現在第4版)が発売された。 公式HPはコチラ。
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