<徳川幕府の海軍力の増強>
嘉永6(1853)年6月3日、浦賀沖にペリー提督率いる米国の黒船艦隊が現れると、徳川幕府は軍艦の建造や購入に力を入れ、海軍の大幅な強化を図る。幕府は大量の軍艦を保有すると、修理や器具製造の可能な場所が必要となり、勘定奉行・小栗忠順(おぐり ただまさ)は造船所建設計画を発案した。
当初、徳川幕府の重臣たちの多くが造船所建設に反対したが、最後は徳川慶喜が承諾し、計画は実行に移されることになる。幕府は元治元(1864)年に造船所の建設を仏国公使レオン・ロッシュに依頼する。同年、ロッシュは横須賀を見学した結果、湾の形に変化があって要害の地であり、風波の心配もなく湾内も広くて深い、また、景色も優れ、仏国のツーロン港に似ているなどの理由から、横須賀を造船所の建設予定地に決定する。造船所建設に際して、ロッシュは仏国から海軍大技士であったフランソワ・レオンス・ヴェルニーを招き、造船所建設の首長に任命する。
慶応元(1865)年9月27日、造船所の建設が開始される。造船所の敷地は約24万6,000平方メートル、費用は4年間で240万ドルという莫大な資金が投入された。規模と建設費用を考えると、当時においてはアジア最大の建設計画であり、その費用を万延二分金などの貨幣の増鋳による貨幣発行益により賄い、不足分は絹の利権を担保に仏国からの借款で充当した。
仏国が造船所建設に積極的であった理由は、当時欧州全土に蔓延した蚕病によって養蚕業が壊滅状態にあり、仏国最大の輸出品である絹織物の供給先として、品質の優れた日本の絹が必要であったからだと言われている。明治維新によって、造船所は明治新政府に引き継がれ、明治4(1871)年に横須賀造船所は完成し、同8年ごろから本格的な軍艦を建造するようになる。
<日本海海戦の勝利に貢献した横須賀造船所>
明治37(1904)年2月8日、日露戦争が勃発する。当時のロシアは、世界が認める大国であり、欧米列強はロシアに日本はとうてい勝目はなく必ず負けると思っていた。ところが、日本の陸軍は奉天の会戦で世界最強と言われたロシア陸軍に勝利し、海軍も日本海海戦において、世界無敵といわれたバルチック艦隊を潰滅させたのである。
日露戦争での日本の勝利は全世界を驚嘆させた。アジアの有色人種の小国が世界最強の軍事国家と言われたロシアを打ち破ったのである。日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った東郷平八郎は明治45(1912)年7月、自宅に小栗の遺族を招き、「日本海海戦の勝利は小栗が作った横須賀造船所のお陰」と礼を述べている。小栗の先見性が認められた瞬間である。司馬遼太郎も小栗を「明治の父」と評している。
<横須賀造船所と日英同盟>
日露戦争の勝利を語る上で忘れてはいけないのが、明治35(1902)年に日本が英国と結んだ日英同盟の存在である。この年に日本海海戦の日本海軍の旗艦となった戦艦三笠が就航している。英国が栄光ある孤立を捨てて日本と同盟を結ぶ決断をした理由は、明治33(1900)年の北清事変(義和団事件)時に、中国大陸に出兵した日本兵の規律の高さを英国が高く評価したことと、中国における「英国の権益」と中国・朝鮮における「日本の権益」を相互に擁護することの2点で、日英の利害が一致したからだと言われている。この2つがいまだに一般的な歴史の定説になっている。
ところがもう1つ重要な要素として、軍艦を修理できる高い技術力を持つ横須賀造船所の存在が、日英同盟の締結に大きく貢献したということはあまり知られていない。当時、アジアのなかで、三笠クラスの軍艦を修理できるドックを持つ造船所は横須賀造船所のみであった。東郷が「日本海海戦の勝利は横須賀造船所のお陰」と言ったように、造船大国の英国も横須賀造船所の修理能力を高く評価していたのである。その後も、海軍造船所、横須賀海軍工廠と名称を変え、戦艦陸奥、空母信濃をはじめ数々の軍艦を建造する。
<日米同盟に貢献する横須賀造船所>
横須賀造船所の3基の「ドライドック」は完成から100年以上を経た今でも、米国海軍の船舶修理施設として使用されている。日英同盟から日米同盟に同盟の相手は代わっても、横須賀造船所は日本人技術者によって支えられ、日米同盟の一翼を担っている。
横須賀造船所がある米海軍横須賀基地は、西太平洋からインド洋までを作戦海域とする第7艦隊の本拠地で、同艦隊の司令部を艦内に持つ旗艦「ブルーリッジ」と、唯一の海外常駐となる空母「ジョージ・ワシントン」の母港となっている。
■濱口和久氏講演会のお知らせ
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<プロフィール>
濱口 和久 (はまぐち かずひさ)
昭和43年熊本県菊池市生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、民主党本部幹事長室副部長、栃木市首席政策監などを経て、テイケイ株式会社常務取締役、国際地政学研究所研究員、日本政策研究センター研究員、日本文化チャンネル桜「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、拓殖大学客員教授を務める。平成16年3月に竹島に本籍を移す。今年3月31日付でテイケイ株式会社を退職し、日本防災士機構認証研修機関の株式会社防災士研修センター常務取締役に就任した。『思城居(おもしろい)』(東京コラボ)、『祖国を誇りに思う心』(ハーベスト出版)などの著書のほかに、安全保障、領土・領海問題、日本の城郭についての論文多数。5月31日に新刊「だれが日本の領土を守るのか?」(たちばな出版、現在第4版)が発売された。 公式HPはコチラ。
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