福岡市の人口が150万人を突破した。私が、鹿児島の田舎町から父親の転勤で百道へ出てきたのが、今から45年ほど前である。当時、福岡刑務所の高いレンガ塀が百道浜に向かって続き、電車賃が15円だったと記憶している。当時の人口は約70万人。百道は埋め立ての前で、夏は海水浴場としてにぎわい、冬は相撲部屋があり力士が海岸を走っていた。それから、わずか半世紀足らずで、人口が2倍となった。
自治体において、人口はその経営基盤として重視される。人口減少は、自治体にとって大きな問題であり、人口増加は歓迎すべき現象であり、すべての自治体が人口増加に躍起になる。月男嘉男の著書「縮小文明の展望」のなかに、「...大抵の日本の都市が策定した将来計画の最初には、10年後とか20年後に、その都市が目指す人口の目標数値が掲載されている。...それぞれは一見すると結構な目標のようであるが、すべてを合計すると1億6,500万になる。...それらの将来計画は意図されたものかどうかは別物として、壮大な虚為でしかなかった。何故そのような虚偽が捏造されたかといえば、人口の増大が発展と理解され、ひいては幸福に到達すると誤解されていたからである。...」という表現がある。これは、いかに自治体が人口増加を地域の最大目標とし、マスタープランにおける最重要課題と位置づけているか、如実に物語っている。
また、熊本大学の徳野貞雄教授が講義で発した「九州で最も高齢者が住む場所はどこか、わかるか?」という問いかけは、鋭く核心を突いている。この問いの答えは、決して阿蘇山麓でもなく、背振山中でもない。この福岡市である。高齢者率21.2%は、福岡県で最高の東峰村の36.8%よりも低いが、高齢者の実数は32万2,000人。つまり、久留米市の人口と同数の高齢者が、この150万都市で生活をしているのだ。
福岡でデザイン活動を始めて20年近くになる。当初から福岡の未来像を語り、いわゆる「マスタープラン」と呼ばれる行政主導の計画作成などに携わり、学識経験者などと多くの計画を作成してきた。だが、現実の都市は、計画の意志とは無関係に経済と市場の論理で、日々その姿を変えている。それは、決して市民が描く理想像を目指して変化しているのではない。震災直後に描いた復興私案(朝日新聞社主催:東日本大震災復興計画私案/2011年8月)でも述べたが、今や、中央から地方へ、あるいは上位から下位へといった命令伝達も、また大きな総合計画のような枠組みから決めて、細部の実施計画を策定するマスタープランの手法も、現実にはほとんど機能しないことは衆目の一致するところである。
150万の都市は、世界のメガシティに比較すれば、まだまだ小さいかもしれないが、3.11以降の社会が目指す都市像を思い描けば、十分に巨大すぎる。人口30万人の久留米市が5個、あるいは10万人の糸島市が15個も集まった巨大都市の将来像は、今まで誰も経験したことがない人口減少や高齢社会、それにともなって大きな問題となる都市郊外の住宅地、都心のスラム化する古いマンション群といった、極めて厳しい現実に真摯に向き合い、その困難さに、新たな「創造性」で挑戦する―そのなかに唯一見出すことができると思っている。
<3.11以後に期待されていたもの>
2011年3月の東日本大震災から2年半。九州で生活する者にとって、正直、他人事のような日々が流れている。いまだに遅々として進まない復興計画、原発の現場、ほとんど意味をなさない除染作業などは、恣意的に意図的に、惨禍を忘れさせるための遅延では、と疑いたくもなる。ただ、幾度となく「想定外」と表現された震災直後、その復旧や復興の姿を思い描くとき、それまでの社会のあり方や、ライフスタイルと決別し、まったく新しい価値観にもとづく社会を、都市を創る、極めて悲惨な契機として、我々は、あの震災と原発事故を認識していたのではなかったか。時の民主党政権の無能さを指摘するまでもないが、その歴史的、もしかしたら、最後の契機を逃し、「取り戻す」という言葉で表現される安易な回帰社会像は、真にこの新しい価値観に逆行するものであろう。
坂口恭平という1978年生まれの実に興味深い若者が、熊本に住む。彼の職業を一言で表現することは、困難である。「独立国家のつくりかた」という本で注目を浴びているが、その主張は、鮮やかである。大学で建築を学び、ホームレスの生活実態を調査し、そこに社会の経済システムとは異なる、たとえば土地建物の所有とは無縁の生きる原理があることを知り、自ら、この国とは異なる「独立国家」を逆説的真摯さで提唱し、誰にも所属しない土地を国土として独立を実行したのである。本文のなかに引用されているのが、土地基本法の一文である。第一章総則、第四章「土地は投機的取引の対象とされてはならない」という条文である。これなどは、震災直後から、土地を所有しているために起こる人為的な悲劇、あるは、いまだに除染のメドが立たず、帰還困難にもかかわらず、国家が所有あるいは借地を提案できない膨大な汚染地の現状に対して、根源的な問いかけをしているのである。
坂口恭平や「絶望の国の幸福な若者たち」あるいは「僕たちの前途」で知られる古市憲寿といった若い世代は、十分に、震災後のこの社会が目指すべき価値転換に気がついている。震災が引き金ではなく、それ以前から社会の伏流水としての激変に反応していたのである。彼らの世代は、決して「都市」などを大文字で語らない。それは、彼ら世代が生まれたときから「成長」、「拡大」、「増加」などと無縁であり、当然の考え方である。
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<プロフィール>
佐藤 俊郎(さとう・としろう)
1953年生まれ、九州芸術工科大学、UCLA(カリフォルニア大学)修士課程修了。アメリカで12年の建築・都市計画の実務を経て、92年に帰国。(株)環境デザイン機構を設立し、現在に至る。そのほか、NPO FUKUOKAデザインリーグ理事、福岡デザイン専門学校理事なども務める。
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