福岡市の人口が150万人を突破した。私が、鹿児島の田舎町から父親の転勤で百道へ出てきたのが、今から45年ほど前である。当時、福岡刑務所の高いレンガ塀が百道浜に向かって続き、電車賃が15円だったと記憶している。当時の人口は約70万人。百道は埋め立ての前で、夏は海水浴場としてにぎわい、冬は相撲部屋があり力士が海岸を走っていた。それから、わずか半世紀足らずで、人口が2倍となった。
<所有する意味>
さまざまな機会に「住環境」をテーマとしてお話をすることあるが、その際、端的に「戦後の持ち家政策は、国家的詐欺である」と述べている。奇をてらうわけではなく、まさに現状が、そのことを如実に表している。3.11を経て、今、戸建てであれ、分譲マンションであれ、所有することが「資産」ではなく「負債」であり、所有に多くのリスクがともなうことを、とくに若い世代が認識し始めている。「2012年国土交通白書」によれば、30歳代の持ち家比率は1982年の53.3%から08年には39.0%へ低下、30歳代の可処分所得における住宅ローンの割合は、13.2%から19.8%へと増加している。
戦後の持ち家政策は、2つの考え方で支えられていた。1つは資産の形成である。住宅を所有すれば、老後はその資産で十分豊かな生活が保障されるという幻想である。1975年の「勤労者財産形成促進法」によって、住宅は"住まい"ではなく、"財産""交換価値"として位置づけられた。しかし、現実には、日本における平均的な住宅の寿命はわずか30年であり、定年退職時には、資産価値をほとんど失っている。まして"土地神話"はずいぶん前に崩壊し、人口減少社会において、住宅の土地価格が上昇することは考えられない。
もう1つの神話は、「家族」である。基本的に、社会の最後のセーフティネットを家族と位置づけ、専業主婦を前提とした理想的な家族像が描かれてきた。終身雇用、年功序列の会社社会に属していれば、自らの生涯年収も算定でき、30年ローンなども容易に組め、会社も支援した。
だが、現実はどうだろう。理想の家族から子どもたちが巣立ち、残された高齢夫婦のどちらかが亡くなれば、「孤族」となる。そして、独立した子どもたちは非正規雇用であり、とてもローンなど組めない。住宅を買えば「幸せ」が付いてくるというのは、明らかな幻想である。しかも、これから自治体の財政格差が広がれば、土地の所有にともなって、無能な自治体というお荷物も土地と一緒に付いてくる。
都市を構成する最小単位を「家族」と考えるならば、すでにそのあるべき姿が見えなくなり、血縁ではなく、地縁や赤の他人ですら「絆」という言葉でつながりを求めている現実がある。
<共同体の再生>
私が糸島に住み始めて4年ほど経つが、人口10万人の町に住めば、等身大の「顔」がよく見えてくる。福岡市内に住んでいたときは、ほとんど地域とのつながりを意識することはなかった。糸島では行政区、学校区、子どもが通う幼稚園での行事、その他多くの会合を含め、常に地域を意識しながら生活をしている。それを、煩わしいと思うかどうか。
竹井隆人はその著書「集合住宅と日本人―あらたな『共同性』を求めて」のなかで、「人間が『共同性』を形成するはじめての舞台は、家族なのである」と言い、「人間が政治から逃れることは事実上不可能」と述べている。ここでの「政治」とは、人々が集団で民主的なプロセスで物事を決定していく仕組みのことであり、「...中間共同体としての『共同性』を一身に集めてきた『会社主義』が終焉を迎えたいま、「会社」の呪縛から逃れた日本人はどこに「共同性」をもとめていくのだろうか...」と問いかけている。その結論として、国家の行く末や理想の都市を語る前に、自らが「集合」して住む、その単位のなかに、今までの社会と異なる「共同体」の再構築を思い描いている。
若い世代の考えも、この捉え方に呼応している。アサダワタルの「住み開き:家から始めるコミュニテイ」には世代を問わず、自分の住空間をまったくの他人に開放しながら、そこで何らかの関係性を生み出し、新しい幸せのかたちと共同体を模索する事例が報告されている。
北九州市は、環境モデル都市として国内外に知られているが、私自身、決して住みたい都市ではない。なぜならば、「環境」が常に産業、企業活動として語られ、「環境」のモデルが、崩壊していく家族にとってどんな意味があるのか、斜面に取り残されている多くの高齢者をどのような共同体で再生するのか、ほとんど語られていない。同じことが福岡でも言える。
「ビジターズインダストリー」「コンベンションシティ」などと言葉を変えながらも、たとえば「観光」という視点は、常に産業として語られる。また、「アジアへ開かれた」といった陳腐化した形容詞は、市民の生活レベルでどのように開かれたのか、皮膚感覚として感じることは少ない。人口150万都市の危うい未来は、そこまで来ている。そして若干の希望は、それに気がついて行動し、発言している若者たちの存在である。
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<プロフィール>
佐藤 俊郎(さとう・としろう)
1953年生まれ、九州芸術工科大学、UCLA(カリフォルニア大学)修士課程修了。アメリカで12年の建築・都市計画の実務を経て、92年に帰国。(株)環境デザイン機構を設立し、現在に至る。そのほか、NPO FUKUOKAデザインリーグ理事、福岡デザイン専門学校理事なども務める。
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