昨年6月、厚労省が今後の認知症施策の方向性についてとりまとめた際、"私たちは、認知症の人の訴えを理解するどころか、疎んじ、拘束するなど不当な扱いをしてきた"と反省の弁から始められている。国の役人が頭を下げたと、当時話題になった。
認知症の人たちを世話する「グループホーム」や「宅老所」が注目を浴び、最近では、行政が積極的に開所を応援しているが、当初は、介護老人保健施設や病院での人権を無視した"虐待"もどきの扱いに憤慨し、必要を痛感した人たちが中心となり、各所にオープンさせた。基本的には、"通所"だが、必要と判断された場合には、"宿泊"も可能とした。介護する人たちの肉体的・精神的疲労の軽減化を図るためである。
宅老所では、介護する人が認知症の人たちを"すべて看る"という方法をとらないところが増えた。認知症の人たち同士が互いに助け合い、必要とされる自分を感じることで、症状が一気に改善するケースが多いという。
以前、テレビのドキュメンタリー番組で見た宅老所では、小学生の女の子が一緒に認知症の高齢者と放課後を過ごした。すると、それまで表情の乏しかった老女の顔が一瞬にして輝きを増した。家に帰りたいとごねていた別の老女も、表情を一変させた。その様子を見守る宅老所の代表。「昼食の時も台所にスタッフと一緒に立ち、昔と同じように食事作りをしていただきます。言葉は失っても、培ってきたスキルは失いません。他人のために役立っているという意識が本人の心をいやしてくれるのです」という言葉が印象的だった。
「バリデーション」という医学用語がある。「痴呆症の高齢者の介護法の一。共感することを基本に、一般の人に理解できない行動などもすべて受容し、コミュニケーションをとろうというもの」(「スーパー大辞典」)。管理するのではなく、ひとりの人間として接する。「徹底して相手の言うことに耳を傾け、聞き入れることだ」という。しかし、これが難しい。身内の突然の変異に、「どうしちゃったの」「なにやってるの」「馬鹿じゃない」「しっかりしてよ」を連発する。ときには手を出す(叩く)こともある。父の場合もそうだった。聡明な父が、ある日を境に性格が一変したのである。すぐには「呆け」だとは判断しにくい。人間の振る舞いとも思えない(その時はそう感じた)父の豹変に気が動転。そうした現実を認めたくないという気持ちが強く働くからだ。
一方で、呆けた父をみて、「何も分からないのだから、父にとっては幸せな状況だといえるのかもしれない。人間生まれる時と死ぬ時の恐怖を神様は排除してくれたのだ」と思う気持ちもあった。現在の認知症に対する考え方は180度変化している。「呆け老人にも心があるという考え方」である。当然、その時のわたしと妻に「バリデーション」などという意識は皆無だ。故郷の山形では痴呆症を「二度わらし(童)」という。子どもの行動に似ているという意味だろう。台風18号が吹き荒れた今日、「敬老の日」に、65歳以上の高齢者が4人に1人を占めたと厚労省が発表した。超高齢化社会がますます認知症を増やす。この項については適宜報告したい。
<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)
1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務ののち、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ二人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(近著・講談社)など。
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