<「山岳」写真家でなく、「ときめきの富士」の写真家!>
――ロッキーさんは、ご自分のことを「ときめきの富士」の写真家と必ず枕詞をつけてご紹介されます。写真家でなく作家であるという表現も使われています。何故でしょうか。
ロッキー田中 私の心にあるのは、葛飾北斎や歌川広重が描いた、広々とした視界の中に、前景、中景、遠景があり、人々の暮らしがあり、富士山もある調和した世界です。つまり浮世絵の再現です。富士山を見ると嬉しくなり、楽しくなり、心がときめくと思いますが、このことこそ、日本文化であり、色々な芸術を生み出す源なのです。
「ときめき」の"めき"は、ざわめき、いろめき、ひらめき等と同じ表現です。動詞"めく"とはエネルギーが立ち上がる状態のことを言います。
私が撮り続けてきた写真の中には、山をズームで雄大に克明に撮ったいわゆる山岳写真はほとんどありません。幅広い視界や世界の中に調和している富士山があります。富士山は、庶民の暮らしの中に、日本人の心の中にあるのです。私は独立する時にこの魂を忘れない様にするために、あえて「ときめきの富士」の写真家を宣言、17年間言い続けています。作家という表現はこの延長線上にあります。それは作品が売れないと"家"とは名乗れないからです。自薦(ひとりよがりなこと)ではなく他薦(多くの方に喜んでいただけること)で評価を頂ける作品を目指しています。
<天の啓示を聞いたその2日後に、辞表提出!>
――ロッキーさんは49歳で、富士ゼロックスという一流企業を退職、独立して写真家になりました。「天の声が聞こえた」と言われています。どういうことでしょうか。
ロッキー田中 40代後半の頃、社内で「自己実現支援制度」で独立する人が増えました。私の周りの多くの先輩、同僚も独立しました。しかし、ほとんど失敗していました。
私は、当時すでに富士山が大好きで、カメラを持ち毎週のように通っていました。自分で気象に関する勉強をし、山でお会いする地元のベテランの先輩の方々にも色々と教えていただいておりました。しかし、皆さん富士山は好きですが、富士山の写真を撮って生計を立てているのかどうか疑問を持っていました。そこで調査してみたのです。
その結果、「富士山写真家」を名乗る方はとても多くいましたが、1人も専業でご飯は食べていなかったのです。趣味として写真を撮っていたのです。専業を目指された方もいたのですが、挫折して、ツアーのガイドとかアマチュア写真クラブの講師になっていました。それを見て、私は「富士山写真家」を名乗るのはよそうと思ったのです。
一方で、営業マン時代にお伺いした元気な会社、明るい会社、魅力的な社長のいる会社には例外なく富士山の絵が飾ってあったことを思い出しました。
日本人にとって富士山は特別な存在です。富士山を見ていると、心が穏やかになり、志が生まれ、勇気が湧いてきます。海外から帰国した時には富士山が見えると安心し、新幹線で富士山が見えると嬉しくなります。仕事で苦しいことがあり、どうしたらいいかわからなくなった時に富士山を見に行こうと車を飛ばす人もいます。1日中、"ぼーっと"富士山を見ているだけで元気が回復してくるのです。
「これは何だろう?」と考えていたある夜、夢に葛飾北斎が現れ、「おー、わしも観とらん景色をよう観とるのう」と言って"すーっと"消えていきました。そして、翌朝目覚めた時「ときめき」という言葉が浮かんだのです。これが天の啓示を聞くことができた瞬間です。すぐに、私は「ときめきの富士」の写真家になることを決意、その2日後に、会社に辞表を出しました。それは、1996年6月1日、49歳のことです。
<プロフィール>
「ときめきの富士」の写真家 ロッキー田中氏
福井県生まれ。1999年アテネ市世界芸術展大賞、2001年マスターズ大東京展最優秀作家賞、2003年第35回新院展に於いて「天空に舞う」が文部科学大臣賞受賞。「富士山を世界遺産にする国民会議」評議員(2005年~13年)、同223フェローメンバー。著書として「ときめきの富士DVDブック」(評言社)、「誰も見たことのないときめきの富士」(飛鳥新社)他多数。TV出演、新聞、雑誌の取材等多数。東京都品川区に「ときめきの富士アートサロン」、山梨県富士吉田市に「山のアトリエ」を開設。富士山に心を寄せる人のオアシスとなっている。
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