<日本人を支えていたエネルギーは「米」>
――「1964年東京五輪」当時と比較して、一言お話いただけますか。
永山氏 日本はちょうど高度経済成長に向かう上り坂の時で、国民には漠然とした期待や自信があった気がします。当時日本人を支えていたエネルギーは間違いなく「米」でした。「1964年東京五輪」当時の日本人1人当たりの米の消費量は117kg(1962年)でした。皆表情が明るかったことを覚えています。「米」中心の食事が脳内セロトニン濃度を高めていたと思います。
その後、高度経済成長が訪れ、近代的で豊かな生活を享受する一方で、食事にかける時間が減っていきました。インスタント食品が全盛となり、時を同じくして、アメリカから肉食文化が入ってきました。脂肪分の多い肉食、アメリカ流の食べ方が主流となりました。
当時の日本人には、タンパク質が不足していたので、一生懸命働くためには、プロテインスコア100の肉食が必要でした。ただし、タンパク質=肉と考えたことは、今から考えると誤りで、魚でも大豆(プロテインスコア100)でもよかったのです。肉を食べて、身長が伸び、平均寿命も伸びたのですが、同じたんぱく質の大豆の消費が少なくなってしまったことは反省しなければなりません。
ただし、日本人はとても賢かったと思います。それは、肉食になっても決して「米」を手放さなかったことです。多くの方の主食は「パン」ではなく「米」だったことです。そのために、歳をとっても、アメリカ人のように、脂肪太りや動脈硬化を起こさなかったのです。
日本人が総肥満になることをかろうじて防いだのは「米」です。日本人のライスパワーというのは、現在でも全く揺るいでいません。今は64年当時と比べると、半分弱の約60kgの消費量になっています。肉も、動物性たんぱくも必要ですが、朝昼晩を米食で80kgぐらいが理想です。そうすると、免疫力も高まり、明るくもなります。米を食べるということは、米に合うおかず(漬物、魚、納豆等)を食べることになり、脂肪系の食べ物を求めなくなります。
<同じ食材を、走り、旬、名残に分けて味わう>
1964年からの日本の大発展「世界の奇跡」を支えたのは「和食」文化であることを今世界が認め始めています
日本人の和食の3原則は、1.コメが主食 2.大豆を活用 3.ダシはカツオ・昆布の3点です。また、和食では、同じ食べ物を3つ(走り、旬、名残)に分けて味わい、さらに全ての時期を活かす「時無し」として発酵食品(味噌、醤油等)もあります。旬とは、最もうま味と栄養が濃縮している時期のことです。
フランス料理とか中国料理は料理人の力量を示すために、煮たり、焼いたりまた、様々な調味料を駆使します。しかし、「和食」は違います。料理人の腕は、包丁さばきにかかっています。いかに、細胞に含まれているうま味成分を閉じ込めたまま、"スパッ"と切れるかが大事なのです。
彩についても、盛り方にしても、自然、季節感をとても大事にします。食べて美味かっただけでは駄目なのです。
<プロフィール>
永山 久夫 (ながやま ひさお)
1932年、福島県生まれ。食文化史研究家。長寿食研究所所長。西武文理大学客員教授(和食文化史)。古代から明治時代までの食事復元の第一人者。長寿の食生活を長年にわたって調査研究。TV、ラジオ等出演多数、講演実績も多数で、その招聘先は日本に留まらず、ヨーロッパ、アメリカ等にまで及ぶ。著書に、「なぜ和食は世界一なのか」、「日本古代食辞典」、「長寿村の100歳食」、「日本人は何を食べてきたのか」、「武士のメシ」、「食の決めワザ100」ほか多数。
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