<大国に翻弄されてきたカンボジアの宿命>
インドシナ半島を歩かないと分からないことばかりだ。海に囲まれた日本に住むと、他民族から侵略される歴史的体験が乏しいから理解できない。
カンボジアの至るところを視察するとクメール人(カンボジア人)ばかりでなく様々な民族の人達と出会う。インド系、中国系、タイ系と多様だ。時代、時代の勢力関係で各民族がカンボジア地区に定着した。昔から陸伝いに移動が容易であった。今回、この国を訪問した際のガイド(純粋のクメール人)の妻は中国人の2世だそうだ。こんな話はゴロゴロしている。
確かに9世紀初頭に勃興したクメール王国は12~13世紀にかけて絶頂時になりアンコール遺跡を残した。カンボジアの歴史においてこの時期だけが独立を誇ることができた。それ以外の時期はインドとシナの覇権戦争に一喜一憂をしてきた。加えること、「隙あらば」と隣国のベトナム、タイ両王国からの侵略の食指が延ばされてきた。ヨーロッパの悲劇のポーランド民族と同様にインドシナ半島では弱い者苛めされる存在であったのだ。
中世時代を経て16世紀になると、ヨーロッパからの西洋人が当地に現われるようになる。ポルトガルの商人、宣教師の渡来が最初である。一時期はオランダの商売の拠点になった時期もあったが、17世紀になってフランス人が到着した。カンボジアは2世紀を経て西洋諸国列強の競い合いの侵略時代に突入した結果、1863年にフランス帝国の保護国に転落し、1887年にフランス領インドシナの一部となった。
第二次世界大戦では一時期、日本がフランスをインドシナ半島から一掃したことで同国は独立を得た。ところが日本の敗戦によりフランスの支配が復活。真の独立は1953年を迎えなければならなかった。この独立も自力によるものではない。ベトナム独立勢力がフランスを軍事的に圧勝したことでカンボジア地区に権力の空白が生じた。間隙を縫って完全独立を勝ち取ったのである。
<現代まで大国間対立に巻き込まれる>
アメリカの侵略によるベトナム戦争時期では、カンボジア東部地区は空爆を浴びた。現在でも東部地区には莫大な数の不発弾が残っている。この地区は北ベトナム軍が往来するホーチミンルートと呼ばれて米軍が爆撃していたのである。1975年、ベトナム戦争に敗北したアメリカは撤退した。ここにまた大国間の覇権争いの谷間が生じる。ベトナムは親ソ、カンボジア内部のポル・ポト派は親中である。
1975年4月にポル・ポト派を中心としたクメール・ルージュが政権を握る。この勢力は毛沢東を信奉して原始共産主義社会の実現を実行しようとした(農業国家の実現)。この勢力は知識人階層を虐殺・皆殺しを謀った。最大予測では人口の30%が抹殺されたと言われる。
この悲惨な現状を打破する勢力がベトナムの力を借りてポル・ポト勢力打倒に乗りだす。ベトナム軍のカンボジア侵攻に激怒した中国は、カンボジア親中派を助っ人するためにベトナムへ越境する。ここで中国・ベトナム激突戦争が起きたのが、1979年の初めである。ベトナムの優勢という形勢の下で終戦となる。さすが中国人民軍といえどもアメリカ帝国を駆逐したばかりの最強のベトナム軍には歯が立たなかった。
1989年にベトナム軍が撤退したあとは、国連の管理下で1992年3月から国際連合カンボジア暫定統治機構による統治が開始されてカンボジア国の再生が開始された。今回もまた完全独立を勝ち取るためにはベトナムの軍事力を頼るしか方策がなかった。その後、カンボジアにおいては経済復興が飛躍的に進んでいる。カンボジア人民党が擁するフン・セン首相のリーダーシップで奇跡の回復を遂げたのである。
そして先だって、カンボジア国民議会が行なわれた。表向きフン・セン首相率いるカンボジア人民党が勝利したとなっている。現在、首都プノンペンでは連日、野党・カンボジア救国党の支持者達が『選挙には不正があった』とデモが展開されているそうだ。この国も国家再生の新しい局面に入ったといえる。
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