<古代の博多、鴻臚館(こうろかん)>
古代の文献に「博多津」、「博多大津」と表記されるとき、それは「那の津」、「那の大津」、「筑紫大津」と同じように、博多湾の持つ港湾機能を表しました。一方、「博多」はその機能と同時に、湾岸一帯の広域をも表わした言葉でした。大正時代の末に、鴻臚館の立地を福岡城内に特定する論文を発表し、以降それを定説とした中山平次郎博士は、そこに着眼し、論の根拠とします。彼の著作『古代乃博多』では、古代の博多の機能を担った鴻臚館が、それまで常識とされていた博多でなく、福岡の地、それも城内の三の丸にあった、というのです。狭義の博多地域に、鴻臚館は決して立地し得ないとも述べています。
狭義の博多は、那珂川と御笠川に挟まれた狭い地域のことです。そんな博多という狭義の地域名が誕生したのは、実は近世(江戸時代)なのです。そう、「福岡」城下の誕生が、「博多」という地名を産みました。
黒田官兵衛(如水)・長政父子ゆかりの備前福岡にちなみ、城下を福岡と命名しました。ところが、古代から中世にかけて、博多は自治都市の性格を有していました。長政は武士が屋敷を持つことを禁止した博多地域を設定し、博多町人に一定の自治を認めました。町人の自治能力と機能を、筑前支配に役立てようとしたのです。それは、豊臣秀吉が筑前を直轄したときの処置に倣ったものです。西中島橋に桝形門を設け、福岡城下と博多の街を区分けしました。「双子都市福岡・博多」の誕生です。
「鴻臚館」の前身「筑紫館」が、荒津(現西公園)の対岸の台地にできた7世紀後半、後に博多と呼ばれる地域の大部分はいまだ海でした。外交施設として設けられた筑紫館は、唐や新羅との緊張関係が緩み、正式外交が途絶えた平安時代には、もっぱら貿易の窓口となり、その名称も唐の外交施設「鴻臚寺」を真似て「鴻臚館」と改められました。その頃です。砂丘の博多浜の陸地化が進んだのは、平安時代なのです。博多浜に居住しながら、実質的に鴻臚館交易を担っていたのが「博多津唐坊」の宋人です。後に博多綱首と呼ばれる彼らこそ、博多を拓き、後の博多商人の魁となります。
1047年に鴻臚館が放火され焼失すると、それを再建する力を当時の朝廷は有しておりませんでした。古代の官営貿易鴻臚館交易は、博多浜を拠点とした民間貿易として、彼ら博多綱首たちによって引き継がれます。彼らは太宰府の役人や筥崎宮を抱き込みます。昨年の大河ドラマ『平清盛』では、太宰少弐(原田氏)が宋商人と結託し、利権を貪る状況が描かれていました。ドラマの末尾の「清盛紀行」で短時間に映し出された5つのこと。鴻臚館跡の航空写真の後、ナレーションで清盛が太宰大弐に就いたこと、櫛田神社が登場し、その周辺で倉庫群が発掘されたこと、「袖の湊」を築港したらしいことを告げて終わりました。この5つのことを文章でつなげば、本質を語れます。が、それはいくつかの建前に正面から楯突くことになりそうですので、今回は皆さまの創作力にお任せします。
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