西日本銀行(現西日本シティ銀行)の専務や西銀経営情報サービスの社長、会長を務めた、川邊事務所(福岡市中央区大名)会長の川邊康晴氏は、1年間北九州市に勤務した以外はずっと福岡市に在住している。長く銀行員として活躍し、今は情報仲介を行なっている「時代の生き証人」に、第二次世界大戦前には地方都市の1つに過ぎなかった福岡市が、なぜこれほど発展したのか、戦後どのように発展してきたのかについて、話を伺った。
<時代の変化に対応できる博多商人のDNA>
川邊会長は、福岡市の発展の背景には、生産年齢人口を中心に人口が増加してかなりの人口ボーナス状態にあったこと、交通の整備が進んだこと、学生が集まる大学や専門学校がたくさんできたことなど、さまざまなインフラに恵まれていたということがあると指摘する。しかし、それと同時に、街や人が変化に対応でき、知恵を絞ってきたということが大きいと指摘する。
福岡市ができるとき、名前を「福岡」とするのか、それとも「博多」とするのかという議論もあったが、博多が長い間、商人の街で、商人のDNAが街にも人にもあったということが、第二次世界大戦後の福岡市の発展に大きく寄与したと川邊会長は見ている。商人は、自己責任で商売をする。リスクがあるが、知恵を使って何とかする。そういうことをずっと繰り返してきた。商人は、製造業のように自分で何か商品をつくるわけではないが、その分、世界中から良いものを見つけてくる「目利き」の力を持っている。だからこそさまざまな変化に対応し、時代によって職を変えていくことで活性化を図ることができた。そして、それが発展につながったという。
上川端に生まれ育った川邊会長は10歳のとき、1945(昭和20)年6月19日夜から20日未明にかけての福岡大空襲に遭った。それまで、軍事基地は狙われていたが、市街地に大規模な空襲はなかった。ところが、このときにはナパーム弾で市街地が一面焼かれた。ザーッという音とともに夕立のような光が舞い降りてきて、海の方から火が押し寄せてきた。川邊会長は、避難することになっていたビルのなかの防空壕にたどり着くことができず、櫛田神社に逃げた。それが良かった。防空壕に逃げた人は、何人も蒸し焼きになって亡くなった。生家は焼け残ったが、街はほぼ一面焼け野原。すっかり焼けてしまった下川端では、地主が引き続き土地を貸すことを拒み、商売をしていた人たちが何人かまとまって、もともとはオフィス街だった新天町に移って行った。当時は、新天町の立地の良さなど意識していなかったが、岩田屋ができ、成功につながった。福岡の発展は、だれかがグランドデザインを描いたわけではなく、街がアメーバ状に発展していったと川邊会長は感じている。
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