<セブ、バンコクなどと都市間協定>
スマートシティプロジェクトなど環境先進都市でもある横浜市が、アジアへのインフラ輸出を積極的に展開している。フィリピンのセブ市、タイのバンコク市、ベトナムのダナン市都市間の協定を結び、これまで培ってきた下水道や公害対策の技術、ゴミ問題などの解決策を提供。横浜市の中小企業が現地に進出して技術を輸出することで、市の経済活性化にもつながっている。
横浜市は、北九州市や南相馬市などとともに環境未来都市に選定され、電力の最適化を図るスマートグリッドなど都市のエネルギー効率化、持続可能な都市づくりにチャレンジしている。1960年代には、公害や住宅乱開発などさまざまな都市問題に頭を痛めてきたが、40~50年前の横浜と同じように人口急増にともなう課題に直面するアジア各都市へのノウハウ提供に、その苦い経験が活きている。
<65年の長期的プランが奏功>
1960年、東京オリンピックが開催される前、池田内閣が所得倍増計画を打ち出したころ、横浜市の人口は、今の半分にも満たない約137万人だった(2013年時点では約380万人)。高度経済成長のさなか、仕事を求めて地方から集団就職した人たち、農村からの人口移動が、東京の隣にある港湾都市・横浜に流入した。1980年までの20年間で、横浜市の人口は、約277万人にまで膨れ上がり、この間、実に140万人以上も増えている。それにともない、下水道や地下鉄、道路などの交通インフラ、住宅環境を整備する必要に迫られた。土地、住居が足りない。下水道が未整備なままで、雨水、排水はあふれ、河川はドブのような状態。道路も鉄道も、急激な人口増に耐えられるものではなかった。
1963年、第18代横浜市長に就任した飛鳥田一雄氏は、市民と直接対話する姿勢、市民参加を政治の信条としていた。1万人市民集会を行ない、市民のニーズを取り入れ、政治に活かした。65年、飛鳥田市長は6大事業構想という長期的なプランを掲げた。横浜ベイブリッジ、みなとみらい地区の都市開発、高速道路、地下鉄整備など、50年先を見据えた都市づくり計画。一自治体が、50年に渡る長期的なプランを立てるのは、当時まれなことだったが、この長期ビジョンに沿って、67年、2期目に入った飛鳥田市長のもと、赤レンガ倉庫など歴史的建造物を保存し、港町の良さを活かした都市整備が加速。また、公害、ゴミ対策にも取り組み、人口倍増にともなう都市課題を着々とクリアしていった。
この6大事業構想による都市づくりが今の横浜の基礎をなしており、飛鳥田市長の「市民と対話する」という姿勢は、今も横浜市の政治に息づいている。
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