<常識外れの傑女>
「いやービックリ仰天した。鬼が1人で日本語学校を切り回している」という情報を耳にしていた。カンボジア・シェムリアップ訪問の楽しみの1つが、その鬼一二三(おに・ひふみ)氏に会うであった。現地到着後、さっそく傑女・鬼氏が運営している『一二三日本語学校』を訪問した。この学校は現在建築中で3階建ての建物となるが途中で止まっている。聞いて驚いた。建築カンパが集まる度に、建設業者に頼まず、学校スタッフが自前で増築してきたというのだ。「昨年8月までは雨が降ると濡れていたが、屋根ができたおかげで悩みが解消された」と、鬼氏は平然と語る。
鬼氏の日本語学校は1995年に始まり、もう18年になる。現在、学生は150人から180人の間で変動。朝7時から夜10時まで1時間単位で日本語授業を行なっており、それぞれの都合に合わせて自由に1時間の授業が受けられる。時間が許せば、何時間受けてもよい。受講生は小学生、中学生、社会人と多種多様だ。その授業の大半を鬼氏が1人で賄っている。最近では、日本からボランティアの教師が来ているが、サポート役しかこなせていない。鬼氏は学校の2階に住みこんで私生活の時間は皆無である。
東京生まれの女性・鬼一二三氏が、なぜこのような鬼神迫る活躍ができているのか!
経歴の通り、鬼氏はいわゆる「お嬢様育ち」であった。短期大学を卒業して富士通に勤務。26歳で結婚し、91年、旦那に伴ってケニアに移住。一子を生み、平凡な主婦の道を辿っていた。冒頭、「常識外れの傑女」と表現してしまったが、昔は「旦那に従順な奥様」だったのだ。
<日本語で仕事を得る卒業生たち>
ところが「従順な奥様」に人生最大のチェンジが訪れた。95年、旦那の転勤に伴い、カンボジアに移ることになった。ひと足先に現地に赴いた旦那から「英語と日本語を教えられるようになりなさい」と命じられ、直ぐに訓練を始めた。カンボジアに着くと、すでに机と椅子が10組用意されていた。それが鬼氏の日本語学校の出発点であった。
その後、頼りにしていた旦那がミャンマーへ転勤となった。しかし、その頃には生徒が2ケタ集まっていたので廃校にするわけにはいかない。「エーイ!!やるしかない」と、鬼氏は覚悟を決めた。従順な鬼氏だが、芯は強い。シェムリアップに1人残って、日本語学校を運営する決意を固めた。
シェムリアップという都市は観光の名所アンコールワットへ向かう経由地である。空港があるため、海外からの観光客が集まる。1番多いのが日本人観光客だ。だから日本人向けの通訳・ガイドの仕事がたくさんある。よって仕事のために日本語を学びたいというニーズが強い。1、2年ほど、『一二三日本語学校』で学び、観光ガイドとして働く卒業生も少なくはない。その熱心に働く姿を目にした鬼氏は、「学校を開いて本当に良かった」と喜び、同時に新たな闘志が湧くという。
しかしながら、1カ月10ドルの授業料で学校を運営するのは至難の業(総収入は日本円換算で月額15万円程度)である。建設資金などは支援者からのカンパでしか調達できない。たいへんではあるが、「地元の人たちが日本語を学ことで仕事を得て、家族を守ることができるのであれば、私の役目として続けたい。生き甲斐を感じてもいます。日本語を学びたい人たちが増えてきていますので、今後も学校の充実に励んでいきます」と、傑女の闘志はますます燃えあがっている。
<プロフィール>
鬼 一二三 (おに ひふみ)
1964年、東京都杉並区生まれ。85年、東京都立立川短期大学(現 首都大学東京)家政学科を卒業し、富士通(株)に入社。91年、同社退職後、95年までケニア共和国に在住。92年からは、通信教育の玉川大学文学部教育学科に編入。以後、同大学ほか、さまざまな通信教育機関で日本語教師、教育関係に関する学習、研究を継続して行なう。95年、カンボジア王国シェムリアップ州で「一二三日本語教室」「123図書館」を開始。98年、「アンコール日本文化交流会」を発足。2001年、「一二三日本語教室」「123図書館」に秋篠宮殿下夫妻がご訪問、その様子は「皇室日記」(日本テレビ)で放映される。
07年、「アンコールワット日本語教師会」設立。以降、同役員として、月例会会場提供、首都プノンペンから日本語教育専門家を招聘し、「日本語教育セミナー」を企画・実施。「NPO法人アンコールワット日本文化交流会」を東京都の認証を受けて設立、理事長に就任。08年、「アンコール日本人会」発足と同時に以降3年にわたり役員を拝命。「アンコール補習授業校」開校と同時に運営委員を拝命する。マスコミによる紹介歴、著書も多数。
※記事へのご意見はこちら