言うまでもなく、街は生き物である。地勢と人がその生命を支えている。北東アジアの東端に位置する列島が、アジアへとつながる場所に位置する福岡は、交易と文化の交流拠点として有史以来歴史を重ねてきた。
グローバルな観点からは中国が世界経済の1つの極として台頭し、日本の立場が相対的に低下しつつあるように見える今日、良かれ悪しかれ、福岡という都市の興亡もその波を逃れることはできないだろう。
玄界灘から福岡市を眺めると、右手(東)に防人の防御拠点であったろう志賀島と海の中道、そして左手(西)には古代史跡の多く残る糸島半島が、羽根を広げたように博多湾を包み込んでいる。海面から少し高度を上げて鳥の目で俯瞰すれば、その所々に主に平成の世に生まれた独創的な現代的建築物の一角を見つけることができるだろう。
香椎浜の「ネクサスワールド」(東区)、百道浜の「ザ・レジデンシャルスイート・福岡」(早良区)、「マリノアシティ福岡」(西区)、「キャナルシティ博多」(博多区)等々...。
これらは福岡地所(株)とそのグループが、もっと言えばその会長である榎本一彦氏が事業として手がけたものである。
極論との批判を恐れず言えば、現在の福岡という街の装いの、「他都市と差別化する個性」の大半を手がけたのは、一民間企業である福岡地所という会社であり、これを率いてきたのは榎本一彦氏という経営者だ。
都市の個性、都市の魅力、そしてパワー。その底流には、住民の経済的、あるいは文化的な営みがある。しかしその活力を、訪れる人は都市の景観のなかに第一印象として刻みつけるのではないだろうか。そしてそれに惹きつけられる人とモノと金が集まることによって、都市という生き物に成長への生命力が宿る。
バブル崩壊や不動産不況、あるいは金融再編の時期を乗り越え、「榎本家」を中心に、そこへ集う人材と福岡地所という企業には、不思議な力が宿っているように見える。
なぜなら、福岡を地盤に事業を展開してきた「地場企業」が、中央、あるいは海外とのビジネス競争のなか、創業家の姿を表舞台から次々と退出させているなかで、同社はそれとは異なる様相を呈しているからだ。そしてその事業は、現在においてさらにグローバルな波に伍する力を磨いているように映る。
第三者としてそれを知ろうと思い立ったとき、我々は1人の人物にその明確な源流を見出すことができる。
四島一二三氏。1881(明治14)年、久留米市北野町に生を受け、後に福岡相互銀行の創業者となった。彼は「興産一万人」の旗頭を掲げ、地元において福岡経済の礎を築く。榎本一彦・福岡地所会長の祖父、その人である。
残された資料、関係者の証言、そして歴史的な背景をたどることによって、この四島一二三氏が今の福岡に、そして榎本家、さらには福岡地所が手がける事業にどのように生き、影響をもたらしているのかを探っていきたい。
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