第2次大戦前、大連市の人口の約2割が「日本人」だった。日本統治時代の名残は特に建造物に見られ、大連賓館(旧大和ホテル)、中国銀行(旧横浜正金銀行)、勝利橋(旧日本橋)など、用途は変わっても、日本風の建物がいまだ「現役」として使われている。建物の特徴は「日本風」だけではない。大連にはロシア人地区にかつて存在したロシアの協会が、現在は「ケンタッキーフライドチキン」となっており、一種の「ユーモア」にも思える。
大連などの重要都市がある「遼東半島」は、中国最初の重工業基地でもあった。遼寧省全体の工業総生産額の7割以上は重工業に依存。大連市街地から車を走らせると、鉄鋼関連の工場群が果てしなく広がる。大連は海に囲まれ、東北地区最大の港でもある。昔からハイカラな町としても知られているが、日本人が行くと「中国にしては穏やか」と感じるかもしれない。寒冷な東北地区で比較的温暖な土地で、遼寧省の中では、インフラ整備も積極的に推進されてきた。穏やかさが「日本人の居住区」としてマッチする。
1980年代の半ばから遼寧省政府は「外国企業誘致政策」を打ち出し、大連を中心に経済開発を急ピッチで進めた。日本もその大きなターゲットだった。その中で、1984年、大連は経済特区と同等の優遇条件が進出企業に付与される14の「沿海開放都市」のひとつに指定された。東北地方には珍しく、大連は優遇措置を受け、その優遇措置の有利性を利用し、急ピッチで開発を進めた。90年代に入ってからは見違えるほどの発展を遂げ、美しい街作りと整備された投資環境を世界に向けアピールしている。大連が他の中国の都市とは違い、日本人にとって「穏やか」で「住みやすく」映るのはそういった背景があるからだ。
日本からの交通アクセスもよく、日本企業の主要進出先だ。台湾経由も含め、数千社の日系企業が進出している。製造業のみならず、近年はコールセンターなどのサービス業やソフト開発業での進出も顕著だ。官民一体の国際開発プロジェクト「開発区」も建設された。開発区は市街地からモノレールで数十分、アクセスも抜群だ。大連の目覚ましい躍進は、中国東北地区全体の経済を牽引している。ただし、日本人が観光で訪れる場合は、中級レベルのレストラン(特に「時価」で海鮮の値段を定めている店)には要注意。外国人、特に日本人客だと分かると法外な値段を要求してくることがあるので注意が必要だ。
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