四島一二三(市次)少年は、筑後川河畔、金島村に中農の三男として生まれた。
5~6歳くらいまでは体が弱かったが、負けん気は強い少年だったという伝がある。
小学校は近くの金島尋常小学校に入学する。8歳の時である。現在の久留米市立金島小学校は久留米市北野町八重亀にあるが、これは後に統合・移転したもので、市次少年が通った尋常小学校は生家のすぐそばにあった。
当時の就学年限は、下等(尋常)小学校が児童令6歳から9歳まで、上等(高等)小学校は10歳から13歳までで、就学期間は上下通じて8年となっている。
この頃の日本はみな貧しかったが、東北などに比べ、穀倉地帯である筑後地方は比較的石高にも恵まれていた。小作人ではなく、三町ほどの田畑を有する中農の家に生まれた市次少年は、のびのびと小学校時代を過ごしたようだ。
特に秀才というわけでもなく、特筆するような大事件を起こしたとも伝わっていない。
1892(明治25)年4月、12歳になった市次少年は善導寺高等小学校に入学する。
当時、高等小学校は三井郡に一校しかなく、進学するものはおよそ10人に1人程度だったという。家からは徒歩で1時間程度の距離だったが、金島から善導寺の高等小学校へ通う子らは、四島家の裏の船端から渡し船に乗って筑後川を渡り、対岸から歩いた。
4学年4クラスで、男女共学。1クラス40~50人程度。思春期を過ごした在学中に起きたのが日清戦争である。1894(明治27)年から翌年にかけてだから、3年生の時にあたる。
開国から明治維新を経て、西南戦争などの内戦の混乱もあったが富国強兵を進める日本が、経済的、軍事的に成長していくなかで起きた、初の対外的な本格的戦争であった。
国民皆兵のなか、軍人が尊重された時代であったので、多感な市次少年もそうした時代の風を吸っていただろう。
しかし、この高等小学校時代も特に何かで目立つ、という存在ではなかったようだ。すでに同級生らは全員鬼籍に入っているわけだが、後世残された証言によれば、意志の強い性格であったとことが伺えるということだ。
16歳、1896(明治29)年3月に高等小学校を卒業となる。このころ、ハワイへの移民は「3年間で400円稼げる」という謳い文句で人気を集め、主要産業であるサトウキビ畑の労働力を確保するため、労働力過剰であった日本から大量に渡航していったが、実態は「奴隷」に近い苛酷な労働が待っていた。
しかし、四島一二三(市次)少年は、すでに高等学校在学中から「将来は海外へ渡りたい」という夢を抱いていたようだ。
「ポテト王」(馬鈴薯王)という言葉を聞いたことがあるだろうか?福岡県三潴郡鳥飼村(現在の久留米市梅満町)出身の牛島謹爾(うしじま・きんじ、1864年~1926年)のことである。上京し漢学塾二松學舍(現二松學舍大学)に進学後、1888年に渡米。サンフランシスコのアメリカ人家庭で働きながら英語を学び、1891年、カリフォルニア州ストックトン地方の湿地帯にある「魔の原」と呼ばれた三角州で開墾を始め、悪戦苦闘を経て良種のジャガイモの大量生産に成功し、6万エーカーを超す大農園を起こした。
収穫したポテトを大きさ別に値段を決めて多くの大衆が買えるようにするなど、流通を含むアメリカの農業の近代化にも貢献。約2,000人を雇用し、収穫高は全米の1割を占めアメリカにおけるポテトの市況そのものに大きな影響力を持つに至ったという。
また1908年に結成された在米日本人会の初代会長として、後の日本人排斥運動などへの交渉の陣頭に立った。
四島一二三(市次)少年がどの程度牛島の情報を得ていたかは明らかではないが、同郷の青年が海外で身を興そうと単身アメリカに渡り奮闘中であるということは、当時の青年らには一定の情報共有がなされていただろう。
「わしもそうなりたい!」。胸の奥に燃え立った炎だが、もちろん周囲の大反対にあう。
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