高等小学校を卒業したばかりの16歳の少年が「海外へ行きたい!」と言えば、今でも大抵の親は反対するだろう。
父親の久五郎も、母親のミエも当然ながらまずは猛烈に反対する。反対するというより、まともに請け合わない。取り付く島なし、といったところである。
一二三(市次)は「まずは炭鉱で働いてお金をため、それをもって渡米しよう」と決意し、飯塚にある鯰田炭鉱で働き始める。ここは最初、麻生太郎元総理の曽祖父、麻生太吉が採炭を始め、後に1889(明治22)年、三菱に譲渡した炭鉱である。
日清戦争後の需要増で炭鉱は景気に湧き、日給は1日20銭であった。
だが、炭鉱の飯場くらしはわずか3週間程度でやめている。1966(昭和41)年に発刊された『二宮佐天荘主人 四島一二三伝』(原田種男著)によれば、炭鉱と飯場の風紀の乱れが一二三には耐えられなかったからだというのが理由になっている。当時は一二三も存命中であり、福岡相互銀行の創立40周年を記念してまとめられた自伝的半生記なので、自身が語ったものなのだろう。
他の鉱夫らが染まっている酒、賭博や色事におぼれてしまわない、というか、それを嫌悪するという一二三の性格は、後の渡米後もベースになっていて、成功へのひとつの要素になっているのではないだろうか。
ともあれ、渡米したいと駄々をこね続ける三男坊に、当初猛反対していた両親や兄たちも徐々に軟化し、ついにこれを許可することとなる。
1896(明治29)年6月15日、明治三陸沖地震が発生している。新聞の発達により、この災害は全国に報道され義援金が募られたということだが、青年へと成長しつつあった一二三はこの大災害をどのように受け止めたであろうか?
先の東日本大震災でも、この地震の教訓が言い伝えられた地区のことが話題となったが、一方で多くの記憶は風化していた。一二三が「アメリカへ行く」と決意し、それを貫いたのはそれほどに以前のことである。
日本では「グローバル化」m「グローバリゼーション」という言葉が1990年代以降盛んに使われるようになり、現代の日本人はその苛酷な市場競争原理におののいている様に見えるが、なんのことはない、100年以上前の日本人も、ある意味もっと苛酷なグローバル化の渦中にあった。
世界史的にはグローバリゼーションは、大航海時代によりヨーロッパ諸国が海外に植民地を作り始めた時期が第1期であり、ナポレオン戦争による国民国家の形成や、産業革命による資本主義の勃興が引き起こした19世紀「第2のグローバリゼーション」のなかに当時の日本も、そして青年へと成長した一二三も居た。
もちろん大半の者は国内に留まり続けたのだが、勇躍世界へ飛び出した若者も少なくはなかったのだ。明治の日本人の気概とでもいうべきものを感じることができる。
さて、「移民」という言葉を本稿でも使用したが、一二三らの渡米は移民というよりは「出稼ぎ」と表現した方がより適切であろう。一二三自身も福岡県庁へ旅券の申請をする際、その理由は「勉学のため」ということになっていた。そうでなければ海外渡航の許可が下りないというのが、当時の状況であった。
官約移民でハワイに渡った移民の多くも、その地で骨を埋める覚悟でというよりは、より条件の良い場所で働いて得た賃金を貯め、やがて故郷に錦を飾ろうという意識の者が多かったそうだ。
もっとも、当初の意図に反して現実はそうならなかったケースが非常に多いのであるが。
いざ渡米が決まると、久五郎は一二三に160円の資金を与え、一家で酒宴を行ない、村を挙げて壮行した。
明治30(1897)年10月、一二三は横浜から英国の貨物船プレマー号に乗ってアメリカへと旅立つ。懐には、船賃50円を払った残りの110円。そして胸の内には、これから待ち受ける異国での生活に対する希望が燃えさかっていたであろう。
※記事へのご意見はこちら