<対中外交は大久保利通に学べ>
明治4(1871)年11月、琉球の漁師54人が台湾に漂着した時、惨殺される事件が起こる。ところが清国政府は謝罪にも賠償にも応じなかった。すると明治新政府は、東アジア情勢に精通していた米国の前厦門(アモイ)領事であったルジャンドルを外務省顧問として迎え入れ、その助言を得て、明治7年5月に西郷従道を出兵させ、台湾を鎮定する。
それに引き続き全権公使の柳原前光が清国政府と交渉にあたるが、話がつかず、大久保自らが全権弁理大臣として北京に乗り込んで交渉にあたった。
交渉は難航するなか、英国公使トーマス・ウェードが仲介に乗り出し、「清国が賠償金10万両を日本に支払うので合意してほしい」と伝えてくる。大久保は、「賠償金を要求しているのではない、要求しているのは謝罪だ」として、これを拒否する。
最後まで清国政府に妥協せず交渉に当たった大久保は、日本の台湾出兵を正式に認めさせ、謝罪と50万両の賠償金を勝ち取った。
大久保は冷酷非情な印象を与える政治家として、とくに大東亜戦争後は国民的人気の乏しい人物ではあるが、国家の存亡という広い視野から国民全体の利益を考えることのできた大久保のような政治家が、対中外交には必要なのである。なぜなら、大久保が生きた時代と現在とでは、日中関係の構造は違うかもしれないが、外交の基本は何ら変わっていないからだ。
さらに言えば、聖徳太子が隋の煬帝に奉呈した国書に書かれていた『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々』こそが、対中外交の基本と言えるだろう。
<安倍首相は歴史認識でも反撃に出よ>
周恩来は昭和24(1949)年、中華人民共和国樹立宣言の際、「われわれ中共軍が日本軍と蒋介石の両軍に鉄砲を撃ち込み、さらに日華協定を妨げたことが、中国共産党の今日の栄光をもたらした起因である」と言明している。毛沢東も昭和39年7月10日、訪中した当時の日本社会党委員長だった佐々木更三と会見した際、「日本軍のお陰で、中華人民共和国をつくることができた」と発言し、日本に対して感謝の意を示している、という事実がある。
周恩来や毛沢東のこれらの発言を知ってか知らずか、江沢民以降の胡錦濤、習近平は中国の歴史認識を日本に強要している。安倍首相は、歴代政権が曖昧にしてきた日中間の歴史認識問題に、日本が「主語」の歴史認識で、中国に対抗してほしい。そのことが中国に対する一番の反撃に繋がるからだ。
≪ (前) |
<プロフィール>
濱口 和久 (はまぐち かずひさ)
昭和43年熊本県菊池市生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、民主党本部幹事長室副部長、栃木市首席政策監などを経て、国際地政学研究所研究員、日本政策研究センター研究員、日本文化チャンネル桜「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、拓殖大学客員教授を務める。平成16年3月に竹島に本籍を移す。現在は、日本防災士機構認証研修機関の(株)防災士研修センター常務取締役。著書に、『思城居(おもしろい)』(東京コラボ)、『祖国を誇りに思う心』(ハーベスト出版)、「だれが日本の領土を守るのか?」(たちばな出版)。11月25日には、夕刊フジに連載中の企画をまとめた『探訪 日本の名城 上-戦国武将と出会う旅』(青林堂)を発売。公式HPはコチラ。
※記事へのご意見はこちら