横浜を出向したプレマー号は、34日間かけてオレゴン州のポートランドに着いた。ここで四島一二三は、北米大陸への第一歩を記すことになる。そして、そこから南下し、サンフランシスコでアメリカでの生活が始まった。
プレマー号は貨物船であり客船ではなかったため、船中ではまともな風呂には入れず、シラミが湧いて閉口したと、後に一二三は語っている。
懐中に抱いた110円は、当時どのくらいの価値があったのだろうか?
炭鉱で働いたときの日当が20銭だったというから、単純に550日分ということになる。休みなく働いたとして、約1年半分の給料だ。
為替レートは当時1ドル=約2円だったので55ドル。通貨価値を時代に即して比較することは難しいが、一説によれば当時の1ドルは現在の25ドル程度の価値というので、それを基準にすると現在の価値でざっと1,375ドルの手持ち資金だった。また当時は、日清戦争の賠償金を英ポンドで獲得したことなどを背景に円が金本位制を導入した時期であり、単純に金価格で比較するとその倍、ということになる。
サンフランシスコではまず簡易ホテルに宿泊した。一泊70セント。宿泊だけのこのホテルの経営者はアメリカ人の老夫婦で、一二三は日銭稼ぎにジャガイモの皮むきや皿洗いなどをしたという。
当面の目標は、まず何よりも最初に英語を習得することであったが、忙しくてその時間が作れないし英語も上達しない。
「これではいかん」ということで、住み込みで働き、夜学校へ通うことができる「スクールボーイ」になることを決めた。ある家庭で朝昼手伝いをし、夜は学校へ通って英会話を学ぶという生活が始まった。また、その家では週3ドルという給料ももらった。
スクールボーイとしての生活は約1年間続き、日常会話や読み書きが何とかできるようになる。
一二三は18歳になっていた。今風に言えば、ここから彼の「社会人生活」が始まる。
彼が働き始めたのは、サンフランシスコの東北にあるサクラメントの農園だった。ここで野菜づくりを行ない、ほどなくホップスの農園に移る。
この頃から一二三は、「早く独立してマスターとして働くこと」を目指すようになる。
現在でもカリフォルニアは、合衆国のなかで日本人に最もなじみ深く、人気のある州だろう。
1848年に良質の金鉱脈が発見され、翌年から「フォーティナイナーズ」と呼ばれる移民の波がカリフォルニアの金鉱原「マザー・ロード」を怒濤のように目指した。直接の採掘関係者にとどまらず、爆発的に増加する人口を支えるさまざまな産業も活況を呈する。
また、大陸横断鉄道の建設が進み、1869年に最初の路線が開通した。それまで数カ月かかっていた東海岸への陸路は、約1週間へと短縮される。
この大陸横断鉄道の工事をはじめとする肉体労働に従事していたのが、中国(清)からの移民である。彼らは、農業労働にも進出する。
カリフォルニアの農業発展は著しかった。人口増による地元の需要増に加え、鉄路による東海岸への輸送も可能になった。また、機械化による集約的な生産によってつくられた小麦は、ヨーロッパの市場へと輸出された。
小麦生産の発展と並行して、果樹や野菜などの集約的生産が発展していく。機械化が可能な小麦に比べ、果樹や野菜などは収穫に人手を要する。その労働力を支えたのは、中国人移民だった。「1880年代末までには、カリフォルニアの農業労働者の4分の3が中国人となっていたという」(『移民農業 カリフォルニアの日本人移民社会』矢ヶ崎典隆著)。
だが、増加する中国人に対する排斥気運が強まり、1882年には中国人排斥法が成立し新たな中国人の入国が禁止された。その後、農業での労働力不足が問題となるが、それを埋めたのが日本人であった。
一二三が渡米した時期は、その移行期に当たった。
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