一二三が働いていたホップスの農園は、ほどなく大量に請け負ったホップスの乾燥に失敗して経営危機に陥る。
農業は天候などの影響を受けはするが、日本人にとってはどちらかと言えば安定した職業というイメージが強いのではないか。しかしカリフォルニアの農業についての本などを読むと、当時から農業もまた事業であり、資金を調達し、人を雇い、商品開発をし、あるいは大型の投資をし、というアグリビジネスとしての側面が強いことを知らされる。アメリカで農園主とはすなわち事業主であり近代的経営者である。
アメリカ滞在中一二三は基本的に農業に携わっていくことになるが、事業家としての彼の人生を考えるとき、この点を理解しておく必要があると思う。
四島一二三はホップス農園を出て、サクラメント郊外のナトマ葡萄園で働くことになる。そこでは日本人が50人から70人ぐらい働いていた。
マスターとして、人に雇われるのではなく人を雇う立場で働くようになりたい。そう志す一二三は身を粉にして働いた。
しかし、ここで働く日本人の多くは、何人か集まると賭博にふけったり酒を飲んだりという怠惰な生活に漬かっていた。苛酷で不安定な労働のなかで、仕事の合間にそういう享楽に引き寄せられていくというのは、一面では無理からぬことであったかもしれない。
一二三は酒もたばこも賭博もやらず、懸命に働いた。ポートランドに着いた際、「アメリカへ送り出してくれた両親のためにもう親不孝はしない。酒もたばこもやらない」と誓いを立てたという。故郷では高等小学校卒業後、何度か酒の飲み過ぎで失敗もしているので、全く酒が飲めなかったというわけでもなかったようだ。
炭鉱での風紀の乱れに違和感を覚え、そこに居場所を見いださなかった一二三の「健全な精神」は、ここでも堕落した生活に拒否感を示していた。
こういう姿勢が生意気に映ったのか。それとも、真面目に働く姿に「金を貯めているだろう」と目をつけられたのか、アメリカ人のボスが賭博に誘うようになる。
「賭博はやりません」幾度か断ったが、しつこく誘ってくる。
一二三は「負けん気の強い性格」であったことは以前に記したが、青年となってから若者宿の数名と喧嘩で大立ち回りを演じたこともあったそうで、火の粉がふりかかってくれば黙ってそれに屈する性格ではなかった。
ある日ついにボスや数人の手下と賭博をやることになった。トランプを使ったオイチョカブに類するものであったようだが、なにしろそのとき初めて手ほどきを受けたということでかなうわけがない。
ばくち打ちの常套手段として最初少々勝って調子に乗せられ、負け始めると頭に血が上り、ついに気がつくと4,000ドルも負けていた。いかさまもあったようだ。有り金を払い「残りは明日払う」と言い残して部屋に帰った。
もちろんそんな金はない。部屋に帰って悶々としていると、暗いなか、相部屋の根来という青年が声をかけてきた。ボスが一二三を殺す計画を話しているのを聞いたと伝え、こう言った。
「ここから逃げろ。」
脱走が見つかれば殺されるだろう。昔も今も、銃を持つことが合法な国である。だがこのままここに留まっても殺される。
一二三はアメリカ滞在中何度か生死の危機に瀕しているが、これがその最初のピンチだった。
夜陰に紛れ着の身着のまま宿舎を抜け出した一二三は、まさに命からがら18マイル(約29km)を駆けサクラメントまで逃げ延びた。そこからニューメキシコ州へ行き線路工夫となる。明治32年。一二三は19歳となっていた。
砂漠の中の線路工事で何カ月か重労働に汗を流したが、一二三の懐に残るものは少なかった。「このままではいけない」。そう悩む彼に監督のアメリカ人が声をかけた。「君は若いけれどもまじめに良く働く。線路工夫で一生を終えるような人間ではない。もっと野心を持て」
そして、チャンスをつかむためにロサンゼルスへ行けと勧めてくれた。
トランクと洋傘を手に、粗末な宿舎を後にしたのはその年の大晦日、すなわち1899年12月31日のこと。激動の1900年代がまさに始まろうとしていた。
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