駅についた一二三は、ロサンゼルスまでの旅費を節約するために無賃乗車を思い立つ。なにしろ駅といっても無人駅で改札もなにもない。
ロサンゼルスまでの汽車賃は20ドルだったが、手持ちは70ドルしかなかった。
停車中の貨物列車は無蓋列車だったが荷物としてボイラーが積み込んであり、この中にもぐり込んだ。
深夜12時、列車は出発した。まもなく強烈な寒気が一二三を襲った。ニューメキシコは比較的温暖な気候であるが、砂漠地帯で昼夜の気温差が激しい。身体を動かして暖まろうとするが、抗することができず、夜明け前にとうとう一二三は意識を失ってしまう。眠りに落ちるというより、凍死寸前の仮死状態である。
それから約3時間、ふと意識が戻った。太陽の光がボイラーの中に射し込み気温があがってきたのだ。「助かった。もしもあの日が曇天や雨天だったら自分は凍死していたに違いない。救われた」後に一二三は子や孫にこう語っていたという。(『四島司聞書 殻を破れ』より)
1900(明治33)年の元旦、ロサンゼルスに到着した一二三は、中国人の飲食店で15セントの豚豆腐と10セントのご飯で食事をとった。「あの時の食事がうまかったことは生涯ともに忘れることができない」(『二宮佐天荘主人 四島一二三伝』より)
名前を市次から一二三に変えたのは、ロサンゼルスに来る少し前のことである。アメリカに労働供給業のボスで熊本一二三という日本人がおり、自分も人の上に立つ人間になりたいという思いから改名を思い立った。
改名は難しかったが、同じ地域に同姓同名の者がいれば認められる場合があったので、たまたま厨市次という人を見つけ一時厨家の養子になった。
この手続きは故郷へ手紙で依頼し、父親の久五郎がとりはからったというから、家族とは連絡がとれていたようだ。
しばらくロサンゼルスに滞在しているうちに、サンタポーラの大きなレモン園に働き口を得ることができた。サンタポーラ市は現在でも人口3万人弱(2010年)の小さな市だが、「世界の柑橘類の首都」と称されている。
カリフォルニア州南部、世界でも最上級に肥沃な大地を有する沖積平野・オックスナード平原にあり、同市をはじめこの地では野菜生産が盛んで、イチゴ、セロリ、ライマメ、レタス、トマト、ブロッコリー、タマネギ、柑橘類(特にレモン)などが作られている。またハクサイなど、19世紀にアメリカ合衆国に移植されたアジア野菜の主要生産地でもある。
サンキストというブランド名を知らない人はいないだろう。1893年に「南カリフォルニア青果協同組合(Southern California Fruit Exchange)」として設立。1905年には5,000人、カリフォルニアの生産者の45%が加入しており「カリフォルニア青果協同組合(California Fruit Growers Exchange)」と改称した。
1908年に最高品質のオレンジに「サンキスト」の名前を導入し、これがブランド付きの最初の果物と言われる。
一二三が働いたレモン園も、この組合に加盟する一員だった。耕地は三百町歩、従業員は450名ほどであったという。
こうしたカリフォルニアにおける農業発展を支えた労働力は、海外からの移民によってまかなわれた。初期は中国人、その後日本人やメキシコ人などである。
そして、日本人のなかでも勤勉で優秀なものが、直接に農園を保有したり、あるいは労働者供給業として頭角を現していく。
例えば先にあげた「ポテトキング」牛島謹爾は、経営するシマ農園のなかで優れた品質のポテトに「シマファンシー」というブランド名をつけ(1896年)、出荷にあたってはロゴ入りの赤い袋で統一した。これは「アメリカにおける最初期の農産物ブランド化」だという。
こうした環境のなか、いよいよ一二三の「立身出世」が始まる。
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