レモン園での四島一二三の奮闘が始まった。繁忙期にはベッドに入るときも靴を履いたまま寝たという。まさに精魂を傾けて、という表現の通りであった。
このレモン園の社長はプランチャード、総支配人はリチャード・チッグであった。鉄道工夫をしていたとき一二三にロサンゼルス行きを勧めてくれた人物と、このリチャード・チッグこそが一二三の人生におけるキーマンであろう。
一二三の働きぶりは農園で働く日本人、そして外国人の間でも評判となった。祭日と日曜日は休みで、外国人と日本人で別々になっていたキャンプでは6畳ほどの部屋に2人が住むようになっていた。水道も電気もある立派な部屋だったという。
以前働いていたナトマ葡萄園では、賭博や酒が職場を覆っていた。今で言う暴力団まがいのグループによる支配は労働者を抑えつけるための常套手段であるが、このレモン園では規律と勤労への評価が貫かれていた。
日本人移民への暴力的支配を行うギャングらに対抗し、この介入を阻むため戦った日本人のボス達もこの頃少なからず現れているのだが、それはまた別の稿で触れることとしよう。
人の二倍も三倍も働き、半分も休まなかった。働くことそのものに生きがいを感じ、全力でそれに取り組んでいった。
外人は主として機会を扱って、耕耘機を動かしたり水を撒いたりという仕事を担当したが、小柄だが手先が器用な日本人は、剪定や採果、袋詰めなどを主に担当した。作業に工夫を加えたり、品質の向上に取り組むなどの日本人が持つDNAは、当時のアメリカでも発揮されていたようである。他の外人に比べ、手を抜く者が少なかった。
そしてそんな中でも一際目立った働きがいを示す一二三を、総支配人のチッグは農園の経営責任者に抜擢したのである。
この話があった当初、一二三は逡巡した。「自分は高等学校の教育を受けただけなので学問はないし、教養もない。こんな自分に400人からの人間を扱うことができるだろうか」と。
しかしチッグは彼を強く後押しする。一二三は「皆の了解を得られたなら」と、集会所に皆に集まってもらい「総支配人に命令されて経営責任者に抜擢されたが、自分としては学問もないし、皆さんを指導する力もない。果たしてこの重責を果たしうるかどうかの自信すらない。受けた方が良いのかどうか、自分は皆さんの意思に従いたいので決めて欲しい」と問うた。
「賛成だ!」という声が上がり、盛んな拍手によって、経営責任者、四島一二三が誕生した。若干22歳。海を渡って5年目のことであった。
後に、福岡相互銀行の実質的な創業社長になった時もそうであるが、一二三は熾烈な権力争いを制してトップに上り詰める、というタイプの人間ではない。気がつくと、いつの間にか周囲に求められ、その座に居るというタイプだ。一言で言えば人望というものだろう。上昇志向が無いわけではない。野心が無いわけもない。17歳の若さで単身アメリカに渡り、早くから「どうせならマスターにならなければ」と志を立てたくらいだから、無欲、というわけでもないのだ。
だが、その方向性が「金」や「地位」とは少し違う。
話が飛ぶようだが、「ホリエモン」こと堀江貴文氏の近著『ゼロ』(ダイヤモンド社)に次のようなくだりがある。「仕事でも勉強でも、あるいは趣味の分野でも、人が物事を好きになっていくプロセスはいつも同じだ。人は何かに『没頭』することができたとき、その対象を好きになることができる」。
当時の一二三は、まさにレモン農園の仕事に没頭していたに違いない。「働くことそのものに価値を見いだし、没頭し、生きがいを感じる」百年の時を超え、その真理は生きているようだ。
さらに言えば、一二三は「自分には努力しかない」という思いもあったのではないか?尋常小学校から高等小学校の時代、彼は特に何かに秀でて目立つ、という存在では無かった。学業成績に優れ上級学校への進学を勧められるというわけでもない。ただ、持ち前の負けん気と、親が与えてくれた頑強な肉体を武器に、日々懸命に努力を重ねることこそに自身の活路がある。若いながらも、そう考えていたと思える。
経営責任者、四島一二三はぐんぐんと頭角を現していく。
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