<晩年、世界中にインパクトある元気さを広めた伝道者>
かねてから「2016年、夏にロス(アメリカ)で開催される世界老人学会で記念講演を行なうまで頑張る」(110歳記念講演)と公言していた曻地三郎氏が、11月27日に心不全のため死去された。
同氏は、世界老人学会の名誉顧問でもあるために講演の要請を受けていたが、自分自身に「110歳までの目標」を立てて奮い立たせていたのであろう。達成未達となり至極、残念なり。
シルバー世代に元気を与えていた曻地先生の逝去は、周囲にかなりの打撃となる。飯塚市にあるライオンズクラブの友人から、涙声の「ショックを受けた」というTELがかかってきた。「107歳の曻地先生が頑張っているのだから、私もまだまだ人生の道を極めなければならない」と刺激をいただいていた方々にとって、深刻な悲報になっただろう。
<障害児教育のパイオニア>
曻地三郎氏のキャリアは、周知されているので省略する。2人の息子が脳性まひになったことが、同氏の障害児教育に賭ける人生を決定づけた。大阪府で教員として勤務していたが、長男の脳性まひに直面することになり、福岡市に転居して九州大学医学部で精神科を選考した。次男も脳性まひになった昭和25年当時、公的障害児教育の整備がいまだなされていなかった。曻地先生は「自分で学園を創り2人の我が子同様に脳性まひで苦しんでいる子ども、親のために貢献するのが天命だ」と悟ったという。
昭和29年に南区井尻に『しいのみ学園』を開設した。資金の大半は私財をなげうって調達したものであった。『しいのみ学園』の映画もヒットしたことは有名である。まさしく『障害児教育』のパイオニア・実践家であった。
しかし、残念ながら人間の寿命も限度がある。この2年間、お付き合いするなかで、曻地先生の老化は確実に進行していた。
昨年2月の飯塚市におけるライオンズクラブの講演会、11月の高校OB会の卓話の2つの段取りを引き受けたのだが、この頃はスムーズに大役を務められた。別紙の写真は今年1月に撮影されたものだ。御自宅でユーモアたっぷりの話を聞かされた。この時点では「110歳でのロス講演は実現できる」と安堵感を抱いたこともあった。
だが、7月の宮田学園の起工式にお会いしたときには、体力の衰退が目立ったことに強く不安感を抱いた。恒例の7月から8月にかけての世界一周の講演めぐりも中止をされたのである。『生は消滅するものなり』とはいえど、110歳まで活躍していただきたいものだった。
あー無情。
※記事へのご意見はこちら