経営責任者となった四島一二三は、皆の先頭に立って働くとともに、職場、すなわち農園の環境改革に取り組む。
1900(明治33年)年ごろから北米への日本人移民は急激に増加する。1900年には1年で1万2,000人が西海岸へ押し寄せた。日本本土から「新天地アメリカ」への渡航がブームになったこともあるが、それよりも大きな要因があった。ハワイからの流入である。
1885(明治18)年から1894(明治27)年まで行われた官約移民では約2万9,000人がハワイに渡った。労働環境は劣悪だったが、月額15ドル程度の給与はそれでも日本に比べれば恵まれていた。それなりに蓄えができたものは、契約期間の3年が終了すると帰国していった。
だが、日本でのインフレ進行による貨幣価値の低下や諸事情によりそのまま現地に留まらざるを得ない者も増えていく。「3~400円の小金を持って帰国する者は、『大成功者』であり、周囲からは羨望の的となった。その一方小金ができず錦衣帰郷できない多数の者は、努力と辛抱のたりない『落伍者』のように見られて、肩身の狭い思いをした」(『行こかメリケン、帰ろかジャパン ~ハワイ移民の百年~』牛島秀彦著)。
1898年ハワイはアメリカに併合され、1900年に基本法が制定される。つまりハワイは「アメリカ国内」になったわけだ。同時に移民を縛っていた「契約労働制」(転職を禁止していた)が廃止され、自由の身になった日本人移民がどっとアメリカ西海岸を目指した。
現在でもそうだが、海外へ出て働く者のなかは、官費留学などの一部エリートを除けば、コツコツと努力し成果を得るものと、誘惑に負け怠惰な生活に陥る者の二通りに分かれるだろう。そして後者からはさらに脱落し、悪事に手を染める者も出てくる。
サンタポーラのレモン園で働く日本人のなかにもそういう者が少なくなかった。賭博はするし酒は飲むし、おまけに作業では手を抜くという有様である。一二三はそうした連中をすべて追い払い、意欲に燃える労働者を迎え入れた。
一方で従業員たちの要望には耳を傾け、条件面や作業環境などでの改善に希望を取り入れた。「家族的経営」は後の経営者・四島一二三を語るとき避けて通れないが、その一方で仕事に手を抜く者、怠惰な者に対する容赦ない厳しさもその特長だ。
そうした経営姿勢の原点を、アメリカでの農園経営に見ることができると言えよう。辞めさせられた者のなかには恨みを抱きギャングに通じる者もいただろう。なにしろ荒っぽい土地柄であり、時代も時代である。まさに「命がけ」の仕事だったことは想像に難くない。
この当時の社会状況を少し整理しておきたい。
アメリカ国内においては、日本からの移民流入の増加とともに「排日」の気運が早くも高まっている。それまでも白人労働者による襲撃など偶発的な事件は起きていたが、1900年5月にサンフランシスコの職工組合が中心となって開催した排日市民集会では、日本人排斥を主唱する市長ジェームス・フィーランらが扇動演説を行ない、西海岸における組織化された排日運動が開始された。
海外においては、1898年1月のスペイン領キューバの首府ハバナで起きた暴動をきっかけとして、同年4月米西戦争が勃発した。スペイン領フィリピンのマニラ湾海戦でスペイン艦隊を撃破するなど戦局はアメリカ優位に進み、スペインの敗北によってカリブ海および太平洋のスペインの旧植民地に対する管理権をアメリカが獲得した
ハワイ併合も、これを足がかりとしたアメリカのアジア・太平洋地域進出の補給基地を確保するという意味合いが強かったと言われる。
太平洋を挟んだ日米両国の直接的対峙が始まったと言えよう。
ついでながら、1899年には「オッペケペ節」で一世を風靡した川上音二郎一座がサンフランシスコに上陸。西海岸、東海岸で公演を行い、翌年、パリ万博で欧州公演を成功させている。
19世紀から20世紀初頭にかけて日本が巻き込まれていたグローバリズムの波は、現在に勝るとも劣らない激しさであり、その中で多くの日本人は世界の舞台に飛び出していた。
1902年、英国は頑なに堅持していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った。いわゆる「日英同盟」である。大西洋を挟んでも、新興覇権国アメリカの台頭と世界帝国・イギリスの凋落が始まろうとしていた。
そんななか、世界史を揺るがす戦争が始まる。日露戦争(1904年~1905年)である。
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