日露戦争そのものについては、これを題材とした多くの書籍や映画なども発表されているので詳細についてはそちらに委ねることにしよう。
ただ、「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」と、東郷平八郎が連合艦隊の旗艦・三笠に掲げたZ旗には、日本だけでなく、近代の幕開け以降白人によって蹂躙され続けてきた有色人種、とりわけアジアの人々の思いも寄せられたという点を指摘しておきたい。
連合艦隊参謀・秋山真之の草案とされるこの一文は英訳され、日本海海戦の勝利の報とともにアメリカにも伝えられた。
"The destiny of our empire depends upon this action. You are all expected to do your utmost"
後に四島一二三は、アメリカ滞在中に最も歓喜した出来事が、バルチック艦隊に対する勝利の知らせだったと語っている。
アメリカ人も口々に「アドミラル・トーゴー(東郷提督)」の偉大さを褒め称えた。
アメリカ大統領、セオドア・ルーズベルトの仲介によりポーツマスで講和条約が締結される。日本に戦争継続の余力は残っていなかったにしろ、日露戦争は実質的に「近代史上初めての、黄色人種による白人への勝利」だった。
日本への親近感が高まり一時的に沈静化した排日運動だったが、ほどなく「やがて日本人や韓国人にアメリカは乗っ取られる」という過激な黄禍論として再燃し、中には「日本の艦隊はいずれ西海岸へ攻めてくる」とまで言い出す者もいた。
ポーツマス条約の翌年、サンフランシスコを大地震が襲ったが、その際日本政府は当時の金額で50万円(国家総予算の1/1000。現在の金額で約600億円と言われる)を、厳しい財政にもかかわらず見舞・援助金としてサンフランシスコ市に送り、さらに在サンフランシスコの邦人へと5万円を送っている。これには排日世論の高まりに対する緩和を期待する思いもあっただろう。
幸いなことに、一二三が働くサンタポーラの農園では、こうした排日運動の影響はほとんどなかった。経営責任者として規律と勤労を重んじ、天長節(天皇誕生日)以外は酒と賭博を禁じ、できるだけ金を残して故国に送金させるよう努めた。
1907(明治40)年、経営責任者となって5年目を迎えた一二三は、1台の自動車を購入した。オーバランドという車で1,500ドルもするものだった。フォード・モーターの創業が1903年、T型フォードの発表が1908年であるから、当時の自動車がいかに高級品であったか想像がつくだろう。
やっと自分で運転ができるようになった2週間後、サンタバーバラにいる友人を訪問しようとハンドルを握っていた一二三は、その途中運転を誤り崖から谷へ転落する。1,500尺もある谷だったが、木の根っこに当たって車は止まり、頭と手に軽いケガをしただけで奇跡的に命をとりとめた。
現地で発行されていた邦字新聞にその模様が掲載されている。
「四島氏の災難=サンタポーラ・レモン・キャンプボスの四島一二三氏は、去る日曜日、新調の自動車にてサンタバーバラ市へ向かう途中、誤って絶壁の山頂より自動車とともに墜落し、約三百尺の谷間に止まりしも、千五百ドルの自動車は粉微塵となり、当然即死の災難に遭うべき筈の同氏は不思議にも跳ね出されて、面部及び手首に軽傷を負いたるのみなりしとは、不幸中の幸というべく、墜落当時現状を目撃し居たる白人等は、四島氏の死より免れたるを一個の奇蹟と称し居れり。尚、破壊したる自動車は七十ドルにて売渡したりと云う」
まさに九死に一生で助かったのは奇蹟的だった。1カ月ほど入院し元通り元気になった一二三の元に一通の電報が届く。
「チチキトク、スグカエレ」
故郷、金島村からのものだった。実はこれは、送付された邦字新聞で一二三の事故を知った家族が一二三を呼び戻すために一計を案じたもので、父親は病気でもなんでもなかった。無事と報じられても、我が子を見るまでは信じられないという親心からであったのかもしれない。
そうとは知らぬ一二三は3カ月の休暇をもらい、350ドルでマニラまでの一等往復切符を購入。そこから香港、上海を経由して横浜へ着いた。さらに金島村までは2日かかった。その間、一二三の胸中はいかばかりだったであろう。
明治40年、27歳の一二三は10年ぶりに故郷へ帰ってきた。
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