四島一二三の十年ぶりの帰還を家族は大喜びで迎えた。父久五郎、母ミエ、平太郎、藤次郎の二人の兄、弟の伊兵、甚五、そして妹のあさを。皆が元気で暮らしていた。
村での滞在は1カ月に及んだ。家族だけでなく、村のみんなも「市ちゃん」を囲んで歓迎の宴を幾度となく催し、異国の地アメリカの話に興味津々で聞き入った。
金島村からは合計で30名以上がアメリカへ渡ることになるが、一二三の成功が大きな影響をおよぼしていることは明かだろう。周辺の地域を含めればその数はさらに多くなる。
そのなかの1人に弟の修造も居た。修造は3歳の時に浮羽郡片の瀬の高山家へ養子に行っていたが、実兄の一二三が渡米していることに刺激を受け、明治38年、18歳の時にメキシコへ渡った。費用の内150円は四島家が出した。
2年間ほどアメリカ人が経営する砂糖会社で働いていたが、一二三の誘いによりサンタポーラキャンプへ渡りそこで2年間ほど働いた。当時は入国制限で直接アメリカには入国できず、カナダ行きの切符を買ってロサンゼルスで途中下車をしたということだ。
その後はサクラメントに近いデイビスで苗木栽培業を営み、51歳で帰国するまで32年間アメリカに滞在した。片の瀬は現在の久留米市田主丸町にあり、江戸時代から苗木や果樹栽培の盛んな土地柄であるから、その関係もあったのだろう。
ちょうど修造のサンタポーラ滞在の時期に重なる1909(明治42)年、一二三は会社を設立する。「四島商会」と名付け、資本金2万5,000ドル。創立は11月22日でもちろん社長は一二三である。
日用雑貨や食料品を販売するかたわら労働力供給業を行なっていた。1人の従業員を入れると手数料が1ドル50セントで、また雇用期間中は現在で言う「派遣手数料」が入った。かなりの収入があったと思われる。
いわゆる「口利き稼業」として労働者供給業に良くないイメージを持つ読者も居るかもしれないが、当時のカリフォルニアにおける日本人労働者供給業、いわゆる「ボス」は少し意味合いが異なる。
英語が不得手だったり、異国の地で頼る者がなかったりする日本人移民にとって、彼らに仕事を世話し、生活の面倒までを見てくれるのが日本人ボスの存在だった。
ひと口に移民と言っても、その内容は様々だった。多くは封建制から近代化、工業化への社会変化のなかで、不安定化した農村社会からはじき出された農民だったが、没落士族や地主、あるいは徴兵逃れを目的とした者、なかには自由民権運動や社会主義運動で官憲に睨まれ、半ば政治亡命的に渡ってきた者なども居た。
中にはやはり素行に問題がある者なども居たようだ。
日本人ボス達は、特に排日気運が高まって以降、連絡し合いながら日本人移民を守り、また金を持ち逃げしたり、ギャングなどとつるんで悪事を働くボスを追放したりした。
このあたりの事情は、アメリカで邦字新聞『日米』の主筆として活躍した鷲津尺魔(鷲頭文三)の生涯を描いた『カリフォルニア移民物語』(佐渡拓平著)や、日系アメリカ人歴史学者ユウジ・イチオカ氏による『一世 黎明期アメリカ移民の物語』などでその一端を知ることができる。
「金を残すなら四島キャンプへ行け」そんな合い言葉も生まれた。
社長・四島一二三が明治44年に書き記した印刷物が残っている。後に「格言社長」として知られた一二三だが、その最初のものと言えるだろう。当時の氏の考えが凝縮された文章なので、全文紹介しよう。(原文はカナ交じり旧字体だが、WEBでの表示を考え一部現代文ひらがな表記とした)
「躬行実践」(躬=身ヘンに弓とは「自ら」という意味)
第一。名を棄て身に就き、言に依らず行を以てし、毀誉褒貶の中に立つといえども、堅く自ら信ずる所を執して動くな。
第二。飢餓に迫るとも、生活費用自己収入の二分の一より超過せしむる勿(なか)れ、出来得べくんば、二分の一以上を貯蓄する事を忘る可からず。
第三。忍耐と勉強とは、富を得るの確実完全なる方法なり。
第四。真心を以て事に当ること。仮令他人の事であれ、自分の利害を見るが如くする精神で動くこと。
第五。虚飾を避けて実益を収め、身の分限を守り、冗費を省きて不時の用に備える事。
第六。己に依頼して他人に依頼すること勿れ。
第七。情実に離るべし、情托は排すべし。
第八。凡て自立の営業を以て渡世せんとするには非常なる覚悟を要す。誠実なるべき事、勤倹なる事秩序正しく歩一歩と進む可き事、善と思えば必ず実行し悪と思えば必ず廃棄する事。
第九。一度心に誓を立てる以上は必ず之を実行する事、若し其手背かば其手を切断して、我と我を鞭撻して励ましたれば、万事に付非常に志操が堅固なる事を忘る勿れ。
第十。成功の為には千難をも恐れず万死をも怖れず、毅然として我踏むべき路を践しで斃(たお)れんのみ。
明治四十四年十月十四日
在米 四島一二三
起業家への指南として、現在でも通用する内容ではなかろうか。
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