新居は最初、今の春吉小学校の近く、謡曲の先生をしていた萩原という人の家の離れで、八畳二間だった。
この頃一時期、四島一二三は株にかなり入れ込んだことがあった。長兄の平太郎が一時証券会社に居たことがあり、その人脈で資産運用として勧められたのだろう。
朝から晩まで株価のことばかり考え、寝言にまでつぶやいていたというから相当なものだった。あまりののぼせように、父親の久五郎から一二三に株をやめるように言って欲しいと頼まれたカズミ夫人は、ある日意を決し株の相場表を黙って燃やしてしまった。一二三が朝から晩まで眺め、火鉢の引き出しに入れていたものである。
烈火の如く怒るかと思いきや、それを知った一二三はただ黙っていたという。それ以降すっぱりと株から手を引き、以後一切手を出さなくなった。
「子々孫々まで株などやらしてはいけない。熱心にやってみてとんとんだ。とことんまでやっても決して得にはならん」と語ったそうだ。
一二三の株式運用は二円の下げの変動でしか勝負をしないもので、ちょうどこの頃(株)荒津商店(後の大博証券)を設立し社長に就任していた、当時の博多を代表する相場師・荒津長七氏が「運用は確実で立派なものだ」と褒めていたという。
しかし孫の榎本重孝氏によれば「かなり痛い目にあったらしい」ということで、その損得がどのようなものであったかは今となっては知るすべはない。
間もなく、この春吉の仮寓から、伊崎(福岡市中央区)の借家へと引っ越す。大家は廣辻信次郎氏であった。
廣辻氏は太宰府天満宮の社家の家柄で、福岡県会計課長を経て、筑紫、遠賀、八女、粕屋の各部長を歴任した人である。大正9年退任。その年旭日小授章を受けている。温厚篤実な人柄で人々からの信頼が厚く、「廣辻さんと言えば郡長さん。郡長さんと言えば廣辻さん」と言われた。
この廣辻氏こそ、その後福岡無尽設立の代表発起人となり、一二三に設立への協力を呼びかけた当人であるから、まさに縁とは不思議なものだ。運命の糸が織りなす人生の綾とは、およそ予測のつかないものだ。
帰国を前に一二三が朝鮮に土地を買い求め農園とし、兄の平太郎に経営を任せていたことは前に記した通りである。
この四島農園は永川(ヨンチョン)にあり、慶尚北道では二番目の規模を誇っていたという。小作人300人、トラクター6台という、内地では考えられない規模だった。
1910(明治40)年、韓国併合が行われ京城に朝鮮総督府が設置された。1920(大正9)年からは総督府の主導で朝鮮産米増殖計画が行われる。世界恐慌による経済環境の悪化などで、結果的にこれは計画通りには進まなかったが、朝鮮における米の増産を目指して大規模な土地・農事改良事業を行おうというものだった。
そういう背景の中での農園経営であったことを記しておきたい。
平太郎、またその子どもの広太らによる農園経営は実績を挙げ、昭和17年には献穀田にも指定されている。終戦直後の昭和20年8月に提出された不動産在外資産報告では、一二三名義が130万円、広太名義で340万円という巨額のものであった。
いずれにせよ農園からの収入などで一二三の生活は保障されており、それなりの生活を送っていた。
1921(大正10)年2月11日、41歳にして一二三は初めての子どもを授かる。夫婦の喜びはいかばかりだったろう。愛児の誕生によって人生の色調や暮らしぶりも変わっていっただろう。当然のことながら心境も。
この娘は和子と名付けられた。榎本和彦・福岡地所会長らの母となる人である。
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