不況の中にあっても、大正期、特にその後半はモボ、モガという言葉に象徴されるように庶民の文化が華やかさを増していた時期でもあった。ジャズが紹介され、銀ブラ、浅草6区の賑わいなど消費行動も変化した。
大正11年には東京上野で「平和記念東京博覧会」が開催され、3月から7月いっぱいまでの開催期間中1,100万人の入場者で賑わったという。
福岡無尽株式会社の沿革をたどると、その最も古い資料として大正12年4月、発起人によって作成された資本金減額申請書があり、これには設立趣意書が添えられている。
趣意書では不況下での金融逼迫で、庶民や零細企業へ融資する金融機関の必要性や使命などが記されており、発起人総代である廣辻信次郎氏の他、林真一、長畑佐一郎(遠賀郡岡垣村)、松本元大蔵属官、吉田近良(宗像郡宗像町)、岡田熊太(宗像郡東郷村)、堺吉次郎(遠賀郡二島村)、高山信吉(宗像郡勝浦村)、小野八三(遠賀郡岡垣村)の各氏が名を連ねている。
林、長畑、松本の三氏が中心となって実務に奔走し、他の5人は近郊町村の大地主、あるいは町村長を務めていた名望家である。橋口町にあった林邸を仮事務所として、現在の福岡市中央区地行に住み時々新聞を発行していた吉田準一という人物も出入りして設立準備にあたった。
当時の福岡市は、本店銀行が4(福岡住吉、博多土居、十七、福岡)、支店銀行が15あり、信用組合が1、2あった。だが不思議なことに免許を受けた無尽会社はひとつもなかった。
大正12年3月には、
(1)商号を「福岡無尽株式会社」とすること。
(2)資本金を30万円(第1回払込金は7万5,000円)とすること。
(3)本店を福岡市に置き、営業区域を福岡県全域とすること。
という条件で、大蔵省の内免許を受けることができた。
30万円という資本金は当時の無尽会社としては最大で、県全域を営業区域とするというのも異例の内容だった。
ところが折からの不況で株の引き受け手が見つからず、第1回払込金調達の目処が立たない。行き詰まり弱り果てた廣辻氏の頭にひらめいたのが、自身の借家に暮らしている四島一二三の存在である。
廣辻氏の一二三に対する第一印象は、村夫子然とした人物だな、というものだった。アメリカ帰りでもっとモダンな身なりを予想していたから意外だったという。
実は一二三も帰国直後は、洋服や持ち物をすべて丸善から取り寄せモダンな身なりをしていたらしい。「大正バブル」の流行に染まっていたのだろうか?あるいはアメリカ帰りの見栄も多少あったかもしれない。
しかし、結婚し福岡に移ってからは、質素な着物を身につけ暮らして居たようである。そちらの方が性に合っていたのだろう。
滲み出る一二三の人格、そして行動力に思い当たった廣辻氏は「藁をもつかむような思い」で一二三に苦境を打ち明け、どうか力を貸して欲しいと頼む。
「高等小学校しか出ていない私にはとても無理です」
そう固辞する一二三だったが、ついに廣辻氏の熱意にほだされた。
アメリカでの事業は成功し、帰国して自適の生活を送る身ではある。しかしこのまま悠々と余生を過ごすことにも心の底からの納得はいかなかったのではないか。
人様の、命より次に大事なお金を扱う仕事であり、しかも出足から難事業であることは明白だ。並大抵の覚悟で引き受けることはできない。
火中の栗を拾うにあたり、深い覚悟と決意を一二三は抱いた。こうして、発起人には名を連ねていない一二三が、その設立の立役者として登場することになるのである。
間もなく、未曾有の大災害が日本を襲う。大正12年9月1日11時58分に起きた「関東大震災」だ。
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