関東大震災は、死者10万人以上を出した近代史上最大級の災害であり、また経済的にも我が国に大きなダメージを与えた(日本銀行の推計で損害額は45.7億円。当時の国家予算が約15億円、GNPは約150億円)。
9月7日には金融モラトリアムが発動され、さらに2年間の猶予を与えられたいわゆる「震災手形」が、後の昭和金融恐慌(1927年)の引き金となる。
こうした事態が、福岡無尽の資本金準備に決定的な影響を与えたことは論を待たない。
発起人の中心となって動いていた林真一氏らは、震災に先立ち、春先から資本金を20万円に減額することを画策していた。これであれば第1回の払込は5万円となる。だが、すでに内免許が下りていた関係上、減額申請は思うようにはかどらず、また5万円の調達も厳しいことに変わりはなかった。
その渦中で、廣辻氏に請われ新たに参加した四島一二三と、林氏の間で衝突が起きた。
経緯について『福岡相互銀行40年史』では、「林発起人は本業の炭鉱が多忙になったため、松本・長畑両発起人とともに、12年6月に発起人辞意を表明し、12月に正式に辞退した」とだけある。そして辞意表明の後、一二三に後事が託された、ということになっている。
だが、『二宮佐天荘主人 四島一二三伝』(原田種夫著)では次のように記述されているのだ。
「ある日、林氏と四島氏の間に大喧嘩がもちあがり、林氏は四島氏の烈しい剣幕に恐れをなして、ついに、無尽会社の創立事務から手を引くことになった。
事の起こりというのは、林氏が、会社の金も自分の金もごっちゃにして居った事に端を発してであるが、根本は、炭鉱経営でおおざっぱに物事を処理する林氏と、刻苦精励そのものの四島氏との性格の相違であり、相互不信で、四島氏は、林氏の経営態度に非常な危険を感じたものと思われる」と。
前者はいわば会社のオフィシャルヒストリー。そして後者は一二三の個人伝記をまとめたものだが、同社の40周年記念事業として並行して制作が進められた。当然、一二三自身からの取材に基づいており、本人も目を通しているはずである。
設立準備をめぐって一二三と林氏の間に何らかの衝突があったことは間違いないと筆者は考える。そして、資本金集めが思うようにはかどらず腰が引けていた林氏に、一二三が引導を渡したのであろうと。
林氏らが正式に辞任したのが12月。その後、改めて資本金減額申請を行ない、今度は認められているから、内免許の内容を変更するにあたり、大蔵省に対しけじめをつける意味もあったのかもしれない。
だがそれにしても・・・。名望家である廣辻氏らを押し立て、実質的に設立を企図したのは林氏である。斤先堀とは言え炭鉱会社の経営者で地元では名も知られ、それなりの地位も財産も有していた。
これに対して一二三は、アメリカ帰りでそれなりの財産があったとは言え、代表発起人である廣辻氏に借家を借りているだけの人物で、地元での事業実績も何もない。強力な後ろ盾を持っているわけでもなく、まったくの無名人である。
その一二三が林氏を押しのけ、設立の中核人物として実務を託されたわけだから、廣辻氏らの信頼が並々ならぬものであったことに驚く。
何しろ、他の発起人にせよ、新たな株の引受手にせよ、命の次に大事なお金を、それも少なくない額を出すわけである。いくら大蔵省の免許事業であると言っても、いや、それだからこそ、震災で日本経済が混乱の極みにあるなかで、未知数の一二三が経営の重責を負い、任されていくことは、本人にとっても、また周囲にとっても、信じられないほど大胆な選択であった。
林氏との決別により、設立事務所は天神橋口の林邸から大正13年1月、中洲の中島町44番地へと移された。ここは太田清蔵氏(第4代)が明治29年に創業した(株)福岡貯蓄銀行(大正5年に福岡銀行へと改称し、同12年9月十七銀行に吸収合併)発祥の地であり、元はその本店が置かれた建物であった。
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