創立事務所は間口3間、奥行き12間のこじんまりとしたもので、創立後そのまま本店営業所となる。この創立事務所を移す時、四島一二三の親類の者達からの忠告があったという。
それは、そのときの一二三の年齢が数えの44歳。事務所が中島町の44番地。4ばかりが並んで縁起が悪いというものだ。一二三は意に介さなかった。それどころかこれ以降も、一二三は「4」を自分のラッキーナンバーとして自宅の電話番号などにも採用する。ちなみにずいぶん後のことになるが、子息の四島司氏に社長職を譲ったのは昭和44年、司氏44歳の時のことだった。
廣辻氏の知人で一二三とも若干の交際があった速水梓氏(二代目専務取締役)を始め、齋藤廣路氏(のち取締役)、豊福後二氏(カツミ夫人の実弟・のち取締役、監査役)、小野田房吉氏(のち取締役)、黒木要太郎氏(のち取締役)らが加わり、創立事務の陣容は固まっていくが、依然7万5,000円という払込金は集まらない。
資本金を20万円とすることを正式に決め、大正13年5月23日に内承認を受ける。
第1回の払込みは5万円。株式は全額発起人引受とせず公募したが、思うようには集まらなかった。最後は一二三が農地のある朝鮮・氷川に金策へ行き、不足分3,000円余りを調達した。5月末に満額となる。
株主名(株数)
廣辻信次郎(500)、四島一二三(500)、櫻井福弥(400)、豊福後二(300)、速水梓(200)、齋藤廣路(200)、菊池武美(200)、山川七蔵(200)、堺吉次郎(100)、高山信吉(100)、吉田近良(100)、岡田熊太(100)、小野八三(100)、小野田房吉(100)、黒木要太郎(100)、福島安太郎(100)、西川歌之介(100)、齋藤正實(100)、長畑佐一郎(100)、四島カツミ(100)、原昌孝(100)、西川音五郎(100)、種田豊吉(100)
計23名、4,000株(太字は発起人)
6月8日に、福岡県第3公会堂で、福岡無尽株式会社の設立総会が開催される。役員が選任され、取締役会の互選で初代社長ならびに専務取締役が決定した。
取締役社長 廣辻 信次郎
専務取締役 吉田 近良
取 締 役 岡田 熊太
取 締 役 堺 吉次郎
監 査 役 高山 信吉
監 査 役 小野 八三
当時の慣例に従い、創立発起人が名を連ね、一二三らは選任されていない。だが、株主構成を見れば一二三が創業の中心となっていたことがおわかりいただけるだろう。
9月4日には第1期定時株主総会が開かれ、取締役に四島一二三、齋藤廣路、黒木要太郎、小野田房吉の4名が、監査役に速水梓、菊池武美の2名が増員された。
初代専務・吉田近良氏は、会社創立当時から健康を害していて、1日も出社できず静養の日々を送っていた。このため同年9月10日に専務取締役を辞任。後任として一二三が専務取締役に就任する。
また廣辻氏も健康を害しており業務を見ることができなかった。業務を実質取り仕切ったのは一二三であった。
吉田近良氏は翌年に取締役を辞任し監査役に就任するが、同年9月18日、25歳の若さで死去。8日後の26日には廣辻氏が後を追うかのように死去した。享年70歳。
一二三は専務取締役の肩書きのまま、同社のトップとなる(社長に就任したのは昭和11年)。船出したばかりの福岡無尽株式会社の行く末は、ひとえに一二三の双肩にかかることとなる。
一二三は経営者としての覚悟を表す有名な「発願文」を記し、出社前に全身全霊で唱えた。そしてこれは、後の生涯で途絶えることはなかったのである。
発願文
謹んで四島家祖先累代の霊に願い奉る
不肖
只今より職場に赴くに当り正義にして如何なる大敵をも恐れず世論喧々囂々誹謗身を包むも泰然自若たれ憤死するも所信は断じて変えぬ決心と千辛万苦を与え給え
更に職務完遂の為には万難を排して突貫するの勇気と強志力行の努力堅忍持久の精神を与え給わんことを血願す
幸にして今日、職務に斃るることあらば弥陀の本願に乗じて浄土に導かれ無限の力を心身に養い来りて七生報国の希望を達せん
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
希望なきは死なり 満足は腐敗なり
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