四島一二三が出社前、毎日唱えたという「発願文」の中で、筆者が特に注目するのは最後の一行だ。
「希望なきは死なり 満足は腐敗なり」
アメリカで成功を収め、悠々自適の日々を過ごしながらも、やはり一二三はそこに安住することができなかったのではないか?
廣辻氏より福岡無尽設立への参加を打診され、その困難な事業に立ち向かって行く中で「ここに自分の新たな生きがいがある」と感じ、また同時に安穏とした日々に浸ろうとしていた自分を深く自省したのではなかろうか?
その決意がこの一文に込められていると筆者は感じる。
設立当時、決算期は6月と12月に決定されており、第1期は大正13年の6月8日までのわずか23日間でむろん欠損。
社員の給与は50円。一二三を除く者たちが話し合って100円にしようと決めていたが、一二三は「会社ができたばかりなのにそんな甘い考えでは困る。100円というなら私はひく。皆さんでやってください」と反対した。
結局、一二三が提案した50円に決まったのだが、当時、師範学校卒業の先生の初任給が55円であったというから、役員給与として100円というのはそれほど法外な額でもなかった。
よくあることで出来たばかりの会社にいかがわしい総会屋などがやってくる。一二三はそれらの連中を一喝し寄せ付けなかった。後日には、次のような名刺を作って人々に配ったそうだ。
株主総会ゴロ撲滅期成会 会長 四島 一二三
社会の腐敗分子が経営をいかに悪化させるかを、アメリカ在住時代に良く知っていた一二三の面目躍如といったところである。
私生活では、長女・和子に続き、長男・孝、そして大正13年の12月28日には次男・司が誕生した。ゲンを担いだのだろう、役所には大正14年1月1日生まれと届けている。
大正13年、福岡無尽創業の年は、九州鉄道の福岡~久留米間が開通(現西鉄大牟田線)、また博多湾鉄道の新博多駅~和白間も開通した。
明けて大正14年10月、玉屋呉服店が市内初、九州で2番目となるデパートを東中州に開業した。取締役社長は田中丸善蔵氏である。
この大正14(1925)年というのは、普通選挙法と治安維持法が成立・施行された年で、日本近代史のメルクマールとなる年として記憶されることになるのだが、当時の一二三らにとっては、それどころではなかっただろう。
新会社を軌道に乗せるための仕事に精魂を傾ける一方、家庭では三人の幼児に囲まれ幸福な日常を過ごしていた。これこそ一二三にとっての大きな「希望」だっただろう。
すでに明治時代より歳末の「誓文払い」(当初は「誓文晴れ」)が福博の町では実施され、また西洋の祭りであるクリスマスもこの頃には庶民の間にも浸透してきていたようだ。
アメリカ帰りの一二三は、愛妻、愛児に囲まれたクリスマスを過ごしたかもしれない。
大正15年の年初は福岡市にチフスが流行し、44人が死亡した。大正12年には福岡市に上水道が完成していたが、まだ井戸水を使用する家庭も多かった。
そんな中、5月に入ったばかりの頃、和子、孝、司の三人が同時に疫痢にかかってしまった。ビワを食べてそれが当たったのだ。
疫痢は赤痢菌によるもので、特に小児にみられる重症型のものだ。経過が急で死亡率が高いことから「はやて」ともよばれた。
一二三夫妻は色を失い、九州大学病院に駆け込んだ。当時数え歳で6歳の和子、2歳の司は一晩で危険な状態を脱することができたが、孝の容態が悪かった。
夫妻で小さな手を握りしめ「孝、孝、孝・・・」と呼び続けたが、意識が戻ることはなく、幼い命の灯は消えていった。
数え歳で5歳。まさに可愛い盛りであっただろう。
衝撃のあまり一二三は部屋の雨戸を閉め、三日三晩床についたまま悲嘆の涙にくれたという。
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