孝の亡骸は荼毘にふされ、小さな骨壺だけが残った。床から起き上がることができない一二三に、金島村から弔問に訪れた父親の久五郎が声をかけた。
「元気を出せ。いくら嘆いても死んだ者が生き返りはしない。ねんごろに念仏を唱えてやれ」と。
和子と司の入院はその後一月ほど続いたが、その間一二三は孝の骨壺を夜ごと抱いては眠りについたという。
一年が経ち、遺骨は伊崎の自宅近くにある大円寺町の正光寺に収められた。現在の福岡市中央区唐人町、当仁小学校の近くである。
それから、毎朝の墓参が日課となる。
毎朝3時40分に起床。山羊の乳をしぼったり、飼っている鶏の世話をしたりした後、軽い朝食をとり、仏壇に向かって「発願文」を朗読。そして、家を出て徒歩で正光寺へ行き、孝の墓前に参る。辺りを清掃した後、5時の始発電車に乗って出社。これがその後30年余り続き、福博の町の「名物」となった「四島の一番電車」の始まりである。
進行方向の一番前の席が一二三の「指定席」であった。今でもそうであろうが、同じ始発電車に乗り合わせる定連の知り合いもできる。魚市場の仲買人らとも親しくなったそうだ。
「会社に着くのはまだ夜明け前ですが、午前9時に全行員が出てくるまで、お茶を沸かしたり、新聞を読んだり、読書をしたり、会社のことを考えたりいたしました。
この朝の時間が私にとっては、一番の勉強の時間でした。」(昭和36年に一二三の口述をまとめた小冊子『わたしの八十年』より)
この生活スタイルを維持するため、一二三は毎日午後4時には退社し帰宅。畑や園芸の作業をした後、7時には床についた。
一二三は、「私が銀行の自動車を使わずに、一番電車で通ったのを、奇をてらうように思われるかもしれませんが、決してそういうことではなく、銀行に着くまではあくまで私用だと考えましたから、代表者として公私の区別をはっきりするのは当然ですし、また創業当時の苦労を何時までも忘れてはならないと思ったからです。
それから社長が夜ふかし、夜遊びをしないということが、金融機関の従業員である行員の生活をひきしめる一助にもなったでしょう」(同誌)と、後に振り返っている。
孝を失った大正15年(1926年)は、一二三にとって悲しみの年となったが、自らを厳しく律する経営姿勢によって社業の方は堅実に進んでいった。6期(大正15年7月~同年12月)において福岡無尽は初めての利益金を出す。
12月25日に大正天皇が崩御し、昭和が始まった。わずか1週間の昭和元年が終わり、明けて昭和2年(1927年)となる。いわゆる「昭和金融恐慌」の年である。
震災手形の不良債権化、為替相場の混乱と金解禁によるデフレ政策。そして政争による国会の混乱。これらが複合的に絡み合い、国民の不安が頂点に達して金融恐慌が発生したのだが、その概略に触れておく。
まず3月14日の衆議院予算委員会で片岡直温蔵相が発した「失言」(「現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻を致しました」)をきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。
いったんは収束したものの、4月に入り鈴木商店が倒産。同社に3億5,000万円の巨額融資を行っていた台湾銀行が4月18日より3週間の休業に入った。3月以来預金取付けが起こっていた関西の名門・近江銀行も同日休業を発表。議会の抵抗により台湾銀行への日銀特融に失敗した若槻内閣(憲政会)は20日に総辞職。さらに21日には、宮内省からの出資を仰ぎ、また宮内省の会計を担当する御用銀行として「名門中の名門」と呼ばれた十五銀行が休業となる。
これを契機として堰を切ったように全国で銀行の取付騒ぎが起きた。
組閣の大命をうけた立憲政友会総裁の田中義一は21日に組閣を行なう。大蔵大臣には高橋是清が任命された。政府の要請で全国の銀行は22日の金曜日と翌23日を臨時休業とし、この間、高橋蔵相はモラトリアム実施の準備を進める。
また払底しかけていた紙幣を供給するために、片面だけ印刷した「裏白」の200円札を急造し、500万枚以上刷らせ日曜日中に各銀行に運び込んだ。
週明けの25日から、小口を除く500円以上の支払いを猶予するモラトリアムが発動され、また銀行の店頭には新200円札がうずたかく積まれたので、全国の銀行は平穏を取り戻した。
福岡無尽はどうであったのだろう?無尽の掛金はその性格上掛金者に払い戻す義務がないので、この取付騒ぎから同社は無縁であった。しかし、不測の事態を防ぐため、銀行各行に習い22日と23日の両日を休業としたことが、社史に記されている。
社業は順調に発展を続けていった。
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