第1次世界大戦後の不況と、昭和金融恐慌の時期を経て、戦争特需により勃興した新興企業の没落と、三菱、三井、住友などの旧来の財閥への資本の集中が進んだ。
昭和2年8月に銀行合併に関する大蔵省通達が出され、翌年から銀行法が施行されると銀行の合同が進行した。中小行への信頼が揺らぎ、三井・三菱・第一・安田・住友の五大銀行への預金の集中が顕著となった。普通銀行の数で見ると、金融恐慌前の1,420行から昭和4年末には881行へ539も減っている。激減と言って良いだろう。
こうしたなか、無尽業は比較的堅調な成長を見せる。福岡無尽においても、四島一二三の堅実な経営によって契約高、純益を伸ばしていった。
(契約高推移)
昭和2年上期(7期) 285万円
昭和3年上期(9期) 370万円
昭和4年上期(11期) 413万円
だがマクロな視点で見ると、この時期世界経済は大不況へと突入していく。
1929(昭和4)年10月24日は「暗黒の木曜日」(Black Thursday)として現代史に刻まれる日だが、よりによってほぼ時を同じくして日本では、濱口民政党内閣によって金解禁に関する大蔵省令が交付され(11月)、翌昭和5年1月11日から金解禁を断行した。金本位制への回帰である。
濱口雄幸首相、井上準之助蔵相による徹底した緊縮財政は、再び巷を不況のどん底に突き落とす。ドルは金との交換を停止していたから、当然円高が進行し国内の輸出産業は大打撃を受けた。社会的にも動揺が増し、昭和5年11月14日東京駅で濱口は凶弾に倒れる(一命を取り留めたが翌年死去)。
濱口の病状悪化による総辞職の後を受け昭和6年4月に発足した第2次若槻内閣のもとで、柳条湖事件(南満州鉄道の爆破事件。関東軍の謀略であったことが定説となっている)を発端とした満州事変が勃発。閣内不一致を見た若槻内閣が総辞職し、「憲政の常道」に従って野党・政友会総裁であった犬養毅に組閣の大命が下る。
12月13日、犬養内閣が発足して高橋是清が再度大蔵大臣に就任すると、その日のうちに金輸出を禁止、同年12月17日の緊急勅令によって日本銀行券の金貨への兌換は全面的に停止され、金本位制に終止符が打たれた。
昭和7(1932)年2月9日、選挙応援中の井上準之助が血盟団の一員により射殺される。そして同年5月15日、官邸を襲撃した青年将校によって犬養毅が凶弾に倒れることとなる(5・15事件)。また、経済を好転させ、その後財政の立て直しを図るため軍部の予算を抑えた蔵相・高橋是清も、昭和11年(1936)年の2・26事件で青年将校の襲撃を受け死亡している。
犬養の放った「話せばわかる」という言葉は今なお語り継がれている。
経済政策的には失策であったろう金解禁を実施したライオン宰相・濱口雄幸にしても、普通選挙のもとで国民の支持を得た民政党の党首として、軍縮と国際協調という自己の信念を貫き、強行に軍縮に反対する海軍大臣に対して「仮令玉砕すとも男子の本懐ならずや」との言葉を放っている。
井上らを襲った血盟団の実行犯・関係者は実刑を受けるものの、いずれも1940年に恩赦で出獄。
濱口を襲った愛国社社員の佐郷屋留雄は昭和8年に死刑判決を受けるが、翌年恩赦により無期懲役に減刑され、その後仮出所している。
また犬養を襲った青年将校らは軍法会議にかけられたが、比較的軽い刑で済み、数年後には全員が恩赦で釈放された。
本稿の趣旨からはややはずれてしまったが、当時の一二三の生きた時代背景を再確認いただく材料として参考にしてもらいたい。
料亭政治や根回しを嫌った濱口の政治スタイルなどは、もしかしたら一二三の勤務スタイルになんらかの影響を与えたかもしれない。
また、一二三自身、不測の事態に備え懐中に常にポケットナイフをしのばせていたという。うち続く不況と農村の窮乏のなかで、軍部の台頭とテロリズムの横行が、大正デモクラシーの時代に終わりを告げていた。
昭和6年は、四島家にとっても悲劇が襲った。三男の孝典が、両親の不在中に誤って消毒薬を飲み込んでしまい、それがもとで死んでしまったのだ。昭和6年3月24日のことである。数えで四歳だった。このとき、七歳だった司も消毒薬を口にしたのだが、苦い味がしたので吐き出し、難を逃れた。赤い丸薬が、なんとなくドロップスに似ていたのだという。
長男の孝に続き、幼い孝典を失った四島夫妻は悲しみの淵に沈んだが、一二三の立ち直りは前回よりは早かった。会社の規模も、また一二三にかかる責任も、一層重くなり、悲しみにばかり暮れることは許されていなかったのであろう。
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