政情的には極めて不安的な状況が続いたが、昭和7年の秋頃からようやく恐慌の底を抜け出した日本経済は、昭和8年から10年にかけて回復を見せる。
実態は、赤字国債の発行による軍事費の増大と、財政インフレ、そして金輸出再禁止後の円安による輸出の増大によるものだった。
「非常時」「準戦時体制」という言葉が頻繁に使われるようになってきたのも、この時期からである。
昭和8(1933)年には満州国を不承認とした国際連盟を日本は脱退し、同年に政権を掌握したナチスドイツとの関係を深めていく。
昭和5年、福岡無尽は初めてのブランチとなる久留米会場を開設した。強力な競合他社があった北九州ではなく、久留米に目をつけたのは一二三の慧眼であった。
創業10周年を迎えた昭和9年には、久留米に加えて、甘木、前原に出張所を、大牟田などに会場網を広げ強力な地盤を形成していった。
給付金契約額は、18期(昭和7年12月)に1,000万円の大台を超え、10周年直前の20期末には1,200万円を突破。資金量も546万円と500万円を上回った。積極的な出店が、この伸びを支えていた。
この中で、昭和7年までは毎期1割の配当に止め重役賞与を廃している。業容展開は積極果敢に、しかし経営の手綱は緩めず。一二三の厳しい経営姿勢が、創業期の基盤を強固なものにしていったことが伺える。
昭和9年10月1日、同社は天神二番地(現在の福岡市中央区天神1丁目)に本社を新築・移転した。敷地130坪、建物は木造トタン瓦葺2階建てで延坪172坪だった。建設費が2万円。土地、建物、什器類など移転にかかわる総費用は5万円ほどで、これにともない払込資本金を5万円から10万円に増額している。
昭和11年1月23日、10周年を終え、株主や社員の強い要請により一二三は社長に就任した。それまでも実質的には社長であったが、専務の肩書きのまま押し通していたのである。
同年7月4日には一家は大濠の新宅へ引っ越しを行った。7月4日はアメリカの独立記念日で、若い頃自分を育んでくれたアメリカへの感謝を表す日として、一二三はこの日だけは会社を休むことにしていたのだ。
昭和12年の1月26日、福岡商工会議所の議員の改選があり、成り行き上出馬しなければならなくなった一二三は、「出るからには勝たねばならぬ」と、一日を歩く戸別訪問を行ない一位で当選した。
地元の名士として、地域においても徐々に重い責任を担っていくこととなる。
昭和12年末には福岡無尽の契約額は2,274万円に達し、資金量は862万円となった。純利益は20期の17,000円から44,000円へと急伸した。従業員数も80名ほどに達している。
同年7月7日、盧溝橋事件が発生。数カ月で終わる筈だった「事変」は、宣戦布告を発すること無くその後延々と続いていく。太平洋戦争へと至る日中戦争の始まりだった。
準戦時体制のもとで、年間10億円という大量の赤字国債を消化するために低金利政策が採られたのは必然だった。これに連動して、銀行の統合計画が打ち出される。
地方の弱小銀行は大銀行と伍していくため、多くは高い預金利子を売り物にしていた。これを放任すれば膨張の一途をたどる国債の円滑な消化に支障をきたす恐れがあった。
従来の統合方針は預金者保護に重点が置かれていたのだが、いつの間にかそれは、軍費調達のための金融統制強化と置き換えられていた。「すり替えられた」と言っても良いかもしれない。
この政策は、銀行においては「1府県1行主義」となって進められ、無尽会社に対しても「1府県数社主義」がとられた。これはやがて「1府県1社主義」さらに「1地方1社主義」へと推し進められていく。
この「1府県1社主義」は、昭和11年、福岡市出身の宰相・広田弘毅のもとで蔵相を務めた馬場鍈(金へんに英)一時代に始まり、やがてそれは国策として、独立独行路線を歩む一二三に重圧としてのしかかってくるのであるが、それについては改めて詳しく触れたい。
統制経済が日本を覆っていく。
ところで、世情不安のなか、政治とは距離を置いてきた一二三だが、ふとしたはずみで福岡市議選に出馬することになるのである。昭和13年のことだ。次回その顛末を記す。
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