島崎無尽主任官の勧奨を受け、福岡無尽では11月12日役員会を開き、以下の条件で博多無尽株式会社との合併承諾書を提出した。
(1)博多無尽株式会社との合併は、県下他地方の合併成立の上なすこと
(2)右合併の実施と同時に支店出張所を任意の地に設置すること
(3)湧金無尽株式会社の株式売戻しと同時に、北九州任意の地に支店を設置すること
だが結局、この統合はうまくいかなかった。福岡県下では無尽会社が群雄割拠していたことに加え、この間各社とも業績を大きく伸ばしていたのである。
福岡無尽では、28期(昭和12年12月決算)から36期(昭和16年12月決算)にいたる9期間に、契約高は3,158万円増加し、1期あたり300万円台で伸張していった。36期末の契約高は5,432万円に達した。資金量は36期末には1,853万円に、利益は6万2,000円に達し、それぞれ大幅な増大を示している。
背景には、戦局の拡大に伴う通貨膨張に起因する「所得の増大」と、「貯蓄奨励の徹底」が金融機関の資金吸収を円滑安易にしたことがある。が、それだけではなく、一二三の卓越した経営手腕によって「当時の無尽会社のなかで業績は図抜けており、おそらく内部留保は全国一であった」(後の豊福専務の述懐)。
生活必需品をはじめとする物資が不足する一方、日銀券の発行残高は昭和11年から昭和16年の間に3倍(約600億円)に膨張し、太平洋戦争突入前にはすでに日本経済は麻痺しつつあった。
このような暗雲立ちこめる時代であったが、昭和16年5月、四島家に慶事が訪れた。長女の和子さんが榎本重彦氏に嫁いだのだ。
和子さんは筑紫高女を卒業後、本人は女子大への進学を希望したが、一二三は「早く結婚した方が良い」と花嫁学校に通わせた。
和子さんの晴衣装は一二三自身も松屋デパート(昭和9年に開業)に自ら足を運び、何組も選んだ。嫁入り道具も同様で、吟味して調達した。
「欲しいものは買うな。必要なものを買え」は一二三の座右の銘であるが、いざとなると出費はいとわなかった。
この年、一二三は還暦を迎えた。
昭和16(1941)年12月8日、日本は英米に宣戦布告。太平洋戦争に突入する。緒戦こそ華々しい戦果をあげたが間もなく息切れし、昭和17年6月のミッドウェー海戦で連合艦隊は機動部隊の中核である空母4隻と艦載機を一挙に喪失。戦局の主導権を失う。
昭和19年、敗色濃いなか、福岡無尽は創立20周年を迎えた。
「金融事業整備令」のもと統合が進められ、福岡県内の無尽会社は、小倉の西日本無尽、南筑無尽、共立無尽、九州無尽、三池無尽、そして福岡無尽の六社に統合されていた。
この六社はもとより九州全部の無尽会社を、野村銀行(後の大和銀行、現りそなホールディングス。野村財閥の中核企業。1925年に分離した証券部門が現在の野村證券)のもと、傘下企業として統合しようというのが国の企図であった。すなわち「国策」である。
無尽会社の統合は、大手銀行の支配下への組み入れとセットであり、その小口金融部門の強化という狙いも合わせて持っていたのである。
6月2日、同社は応召中の豊福取締役を除いた全役員が出席した役員会を開催し、次のように議決した。
(1)県下一社としての合併ならば同意す
(2)野村銀行の介在する合併または譲渡ならば不賛成
最終的な会社の意思表示である。この間、大蔵省や銀行検査官の訪問、県当局、日銀福岡支店の斡旋などが何度か行なわれ、一二三に対し大蔵省からのきびしい出頭命令も幾度か出されたが、一二三はこれに応じず、速水常務、斎藤取締役に代行させた。
こうした態度に業を煮やしたのであろう、間もなく、野村銀行頭取が大濠にある一二三の自宅を、秘書一人を伴って訪れた。
応接室で一二三と対峙した頭取は、やや高圧的に時局の非常であることを説き、国策遂行に協力することは国民の義務であることをとうとうと語り、最後にこう突きつけた。
「合併について賛成か、不賛成か、イエスかノーかの一言だけ聞かせてもらいたい」
射すような頭取の視線に、微笑みをもって返した一二三は「いますぐご返事は出来ませんので、二時間だけ考えさせてください」と言い残し、自室へと戻った。
一二三の腹は固まっていた。
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