自室に引き上げた四島一二三であったが、すでに胸の内は決まっている。それでも、この社会情勢のなかで「国策」に逆らうことがどのような結果を生むのか・・・若干の逡巡も浮かんだことだろう。
しかし、一二三は改めて、自ら書き表し、また日々戒めとしている「力の泉」の次の一節を見つめ、自らを鼓舞した。
信念に生きよ
希望なきは死なり
満足は腐敗なり
勇気なきは精神的死者なり
堅持せよ、鉄の意志と火の精神力
断行せよ、信念の前に不可能なし
応接室では物音ひとつしなかった。野村銀行頭取と、その秘書の二人は静かに待つだけであった。
きっちり2時間後、応接室に戻った一二三はこう告げた。
「合併に同意します」
頭取は一瞬安堵した表情を見せた。「それはそうだ。これは国策なのだ。同意するなら最初から素直にすればよいものを・・・」
そんな思いが頭をよぎった刹那、次の一言が一二三から発せられた。
「ただし、条件があります。合併により新設される会社の株式の半数を買い受けたい。それがかなわぬなら、同意できません」と。
「なっ!・・・」
絶句した頭取の顔が一瞬青ざめ、そして見る間に紅潮した。屈したかと思えた眼前の小柄な男は、逆に懐深く飛び込み、渾身の捨て身技を発したのだ。
交渉は決裂した。二人を見送ったあと、一二三はこう考えていた。
「政府は権力によって会社の統合を命令してくるに相違ない。これで福岡無尽は終わった」と。
だが、この予測は外れた。昭和19年12月1日、福岡無尽を除く5社によって「西日本無尽株式会社」の新設合併が行なわれた。「西日本相互銀行」の前身である。同社の契約高は約3億円。同時期の福岡無尽の契約高7,953万円の4倍弱だった。福岡無尽は独立を守った。
当時は「国家総動員法」に基づき「金融事業整備令」という勅令が施行されていて、政府は金融機関を強制的に合併、あるいは営業譲渡させることのできる権限を有していた。
なぜ命令は行なわれなかったのか?
昭和19年6月19日から20日にかけて行われたマリアナ沖海戦で日本海軍は壊滅的敗北(空母3隻および艦載機、出撃潜水艦の多数)を喫し、空母部隊による戦闘能力を喪失、西部太平洋の制海権と制空権は完全に米国の手に陥ちた。これは「絶対的国防圏」の崩壊を意味した。サイパンをはじめこの地域の島々が米軍に奪われても、もはや反撃・奪還する手段がないのである。補給手段すらない。製造が開始された新型長距離爆撃機B-29による本土空襲にフリーハンドが与えられた。
7月18日に東条内閣は総辞職。10月には、「特攻」が陸海軍により組織的に開始される。
政権をはじめとする国家機構そのものが大混乱、あるいは思考停止状態に陥り、地方の無尽会社の統合などに係わっている余裕も時間もなくなったのかもしれない。まだ少しでも正常な判断力がある政治家や官僚は終戦工作を真剣に考え始めていたであろう。
とはいえ、自己の狭い権限の範囲内で権力をふるうことのみに執着する官僚は、いつの世にも存在するから、横やりを入れる可能性がなかったわけではない。
一二三の捨て身の姿勢、裂帛の気概が統合を阻止したことに違いはなかろう。
以上の背景事情は筆者の全くの推測である。蛇足ながらもうひとつの推測を付け加えたい。「跡継ぎ息子」であった司氏は、昭和20年の5月に招集されている。中学時代に胸膜炎を患って1年間入院しており、徴兵検査ではほぼ兵役免除に近い「第三乙」だった。「甲種」の次の「乙種」、そのなかでも三番目。ほぼ最低ランクである。
この頃は年齢の高い者なども招集されており、そこまで人材が払底していたというのは事実だが、国策に準じない経営者の息子であるということが、この招集になんらかの影響は与えていなかったのか・・・?
マリアナ沖海戦からちょうど1年後の昭和20年6月19日、福岡は大空襲に見舞われ、大濠の四島家自宅をはじめ、福博の市街地は焼け野原となる。そして8月15日、終戦を迎えた。
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