脱原発から再生可能エネルギーへのシフト実現のカギを握る自民党・河野太郎衆院議員と、環境エネルギー政策研究所の飯田哲也所長。長期的視野のもと、日本はどのようなエネルギー戦略を立てるべきか。脱原発、エネルギーシフトを成し遂げるために、市民は何を心がければいいのか。改革の志士でもある2人に、日本のエネルギー政策の未来を語ってもらった。
<日本ももっと国民的な議論が必要>
河野太郎氏(以下、河野) ドイツでエネルギーシフトが始まったのは、チェルノブイリの事故後の1986年頃から。オイルショックでドイツも原発だと旗を振っていたけど、チェルノブイリの事故で影響を被って、これはいかんと方向を転換した。98年、社会民主党と緑の党の連立政権が誕生して、ここまでに12年かかっている。そこから、2000年に国民的に脱原発で合意し、02年に法律ができた。その後、一度揺り戻したけれど、福島第一原発事故を受けて、国民合意が完成した。そこまで、ずっと議論している。日本は、福島第一原発以降、脱原発の議論が高まってきたが、それまでは、自民党のなかで脱原発と言っているのは僕1人だった。日本ももっと国民的な議論が必要です。
飯田哲也氏(以下、飯田) 河野さんに出会ったのが、固定価格買取制度の草案をつくり始めた98年。それから15年ぐらいですか。党のなかで脱原発の意見を曲げずに、ずっと声を上げ続けてこられて、苦労されてきたと思います。
河野 今は、自民党のなかでも、「脱原発」とオープンに言う人も増えてきている。自民党も、変わりつつはある。ただ、12月の衆院選が福島第一原発事故後の初めての国政選挙だったのですが、残念ながら、エネルギーや原発の問題が争点にならなかった。「経済」が前面に出て、エネルギーでの国政選挙ができなかった。全国各地どこに行っても、争点はエネルギーではなく、経済だと言っている有権者がほとんどだった。「失われた10年」があって、共通の思いとして、まず経済を復活させようという思いがあったのは現実。参院選も、エネルギーの問題は争点にならなかった。そこは残念だった。
飯田 12年に山口県知事選に出馬して、その後、12月の衆院選では未来の党で出馬して、政治の渦巻きのなかにいた。政治家と普通の人の間に、自分のなかでは、その2つを隔てる壁はないと思っています。エネルギー改革者というスタンスで、今後もエネルギー分野を良い方向に変えていきたいと思っています。
90年代、北欧では、政策によって社会が変わるという時代だった。その北欧でエネルギー分野の劇的な変化を見てきた。世界的な激動のなかで、日本は流れに逆行しようとしている。ドイツでエネルギーの20年先を見てきた感想は、いかがでしたでしょうか。
河野 11月半ば頃、ドイツから招聘されて視察してきました。見てきたのは、ドイツのバーデン=ヴュルテンベルクという自動車産業が集まっている州。製造業は日本では「原発を止めるとコストが高くなって...」なんて議論をしているが、ドイツでは、その自動車産業の集積している州が先頭を切って、エネルギーシフトを進めている。
印象的だったのは、与党、野党いろいろな政治家に会いましたけど、すべての政治家が脱原発は「国民の意思」と言うんですよね。「脱原発をするというのは、すでにドイツでは決まったこと」とみんなが言っていた。すでに、「どうやってエネルギーシフトをやり遂げるか」という一歩進んだ手段の議論をしている。
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<プロフィール>
河野 太郎(こうの・たろう)
1963年生まれ。81年慶應義塾大学経済学部入学。84年ポーランド中央計画統計大学留学。85年ジョージタウン大学卒業。86年富士ゼロックス(株)入社。93年日本端子(株)入社。96年第41回衆議院総選挙で初当選。2002年総務大臣政務官に就任。05年法務副大臣に就任。08年衆議院外務委員長就任。09年自由民主党総裁選挙で次点。12年第46回衆議院総選挙にて神奈川第15区で6回目の当選。
<プロフィール>
飯田 哲也(いいだ・てつなり)
1959年生まれ。京都大学大学院工学研究科原子核工学専攻修士課程修了。東京大学先端科学技術センター博士課程修了。原子力産業や安全規制に従事後、「原子力ムラ」を脱出。北欧での研究活動や非営利活動を経て、認定NPO法人環境エネルギー政策研究所(ISEP)を設立。持続可能なエネルギー政策の実現を目指し、地方自治体や国の審議会委員を務める。世界中に幅広いネットワークを持ち、とくに3.11以降、世論をリードするエネルギー戦略を打ち出す。
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