ここで鈴木の政治家としての凄さを示すエピソードを1つ紹介したい。
首相に就任した直後の4月12日に、ルーズベルト米国大統領死去の報道を知ると、同盟通信社の短波放送により、「私は深い哀悼の意を米国国民に送るものであります。しかし、ルーズベルト氏の死によって、米国の日本に対する戦争継続の努力が変わるとは考えておりません」という談話を世界へ発信している。同じ頃、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは鈴木とは対照的にルーズベルトを罵った。米国に亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは、英国BBCで「ドイツ国民よ、東洋の騎士道を見よ」と題して声明を発表し、鈴木の武士道精神を称賛している。
鈴木の弔意表明が米国に対する「終戦工作の一貫」だったかどうかは、今となっては定かではないが、日本の敗戦が濃厚ななか、日本人としての誇りを世界に示した態度であることには間違いないだろう。
<終戦工作に命を懸ける>
8月6日、広島に原爆投下、9日のソ連参戦から15日の終戦に至る間、鈴木は77歳の老体を押して不眠不休に近い形で終戦工作に精力を尽くした。昭和天皇の希望は「軍や国民の混乱を最低限に抑える形で戦争を終らせたい」というものであり、これに対する鈴木の考えは「天皇の名の下に起った戦争を衆目が納得する形で終らせるには、昭和天皇本人の御聖断を賜るよりほかない」というものであった。
9日深夜から行われた昭和天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)ではポツダム宣言即時受諾の東郷外相説と、条件付受諾の阿南陸相説とで議論が分かれた。10日午前2時頃、鈴木が起立し、「誠に以って畏多い極みでありますが、これより私が御前に出て、思召しを御伺いし、聖慮を以って本会議の決定と致したいと存じます」という言葉を搾り出した。昭和天皇は涙ながらに、「朕の意見は、先ほどから外務大臣の申しているところに同意である」と即時受諾案に賛意を示される。
14日、再度御前会議を招集し昭和天皇に再び御聖断を懇願。ここでポツダム宣言全面受諾の御聖断が正式に下される。翌15日正午、昭和天皇本人の朗読による終戦の詔勅が全国民へラジオ放送される。この日の未明、表向きは主戦論を唱えつつも鈴木の終戦工作に気脈を通じていた阿南惟幾陸相が敗軍の将の責任を取って自刀する。同日、鈴木も昭和天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職した。
戦後は戦犯に問われることもなく再度枢密院議長を務めあげ、昭和23年4月17日、80歳で亡くなる。
遺品の多くは、千葉県野田市の鈴木貫太郎記念館に展示されている。鈴木内閣はわずか4カ月の短命内閣であったが、大東亜戦争の幕引きを見事に成し遂げた「終戦内閣」として、今もなお昭和史にしっかりと刻み込まれている。
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<プロフィール>
濱口 和久 (はまぐち かずひさ)
昭和43年熊本県菊池市生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、民主党本部幹事長室副部長、栃木市首席政策監などを経て、国際地政学研究所研究員、日本政策研究センター研究員、日本文化チャンネル桜「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、拓殖大学客員教授を務める。平成16年3月に竹島に本籍を移す。現在は、日本防災士機構認証研修機関の(株)防災士研修センター常務取締役。著書に、『思城居(おもしろい)』(東京コラボ)、『祖国を誇りに思う心』(ハーベスト出版)、「だれが日本の領土を守るのか?」(たちばな出版)。11月25日には、夕刊フジに連載中の企画をまとめた『探訪 日本の名城 上-戦国武将と出会う旅』(青林堂)を発売。公式HPはコチラ。
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