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「断行せよ 信念の前に不可能なし」~四島一二三伝(28)
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2014年1月 8日 07:00

 1951(昭和26)年6月相互銀行法が公布施行され、全国に70社あった無尽会社のうち58社が同年10月に相互銀行に移行した。福岡無尽も10月20日、株式会社福岡相互銀行と商号を変え新たなスタートを切る。
 当時の資金量は、第1位の日本相互銀行(戦時下の統合で東京府内の無尽会社が合併。その後太陽銀行となり普銀へ転換。現三井住友銀行の前身のひとつ)が別格の171億円。第2位が北洋相互銀行の83億円、第3位が西日本相互銀行の82億円で、福岡相互銀行の資金量は23億円と全国12位にランクされていた。

 同行は1989(平成元)年2月に普通銀行に転換し、福岡シティ銀行へ、そして2004(平成16)年10月、西日本相互銀行との合併(被合併)で西日本シティ銀行が誕生する。
 この普銀転換を、全国相互銀行協会会長として主導したのが四島司である。1969(昭和44)年、87歳の父・四島一二三からバトンを受け、03(平成15)年に退任するまで、国内の銀行では最長となる34年間経営トップを務めた。

 司が取締役(業務部長)に就任したのは1956年、31歳の時だ。この年の経済白書「日本経済の成長と近代化」の結びに記述された「もはや戦後ではない」という言葉は流行語にもなった。神武景気が到来し、冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビが「三種の神器」として国民のあこがれとなる。そしてそれは「手の届く夢」だった。

clock3.jpg 入社以降、司は一二三の旧弊を壊す「クーデター」を断行していく。1952年から大卒の定期採用を本格的に始め、寮や研修施設を整備。大濠公園の隣に建てた研修所は、銀行としては九州で初めてのものだった。
 優秀な若手を業務部に集め、企画力や営業力を強化するとともに給与改革も進めた。歩合制だった外務員の給与を固定制(契約年俸制)へと変更。年配の外務員には役員報酬よりも高い給与をもらう者もいたが、若手のヤル気を引き出すために大なたを振るった。
 司は著書『人惚れ』(「日本経済新聞」夕刊に連載したコラムをまとめたもの)のなかで、(朝型の一二三に対し)「私は父へのレジスタンスもあって、夜ふかし朝寝坊と反対の生活を続けてきた」と記している。取引先や友人らと痛飲した司が朝帰りすると、一番電車で出勤する一二三と玄関で鉢合わせし、一二三が苦り切った顔をするというような事もあった。

 高度成長下、事業者の資金需要は旺盛で、融資の元手となる預金の獲得が焦眉の課題だった。一二三が「顧客行脚」を行なう一方、司は一週間単位で支店に泊まり込み「可能性の限界に挑戦しよう」と行員を鼓舞した。
 1954(昭和29)年に100億円を突破した資金量(預金残高)は、61年に300億円、63年には500億円となった。
 
 司は行内改革では人事にも手をつけていく。考え方の古い年配の役員を重要ポストから外し、若手の部課長や支店長を登用した。気心の知れた部下を昇進させたいと考える一二三との衝突もたびたび起きた。

 やや話をさかのぼる。54年は同行の創立30周年でもあった。この時点で資金量は全国相互銀行中第6位まで上昇していた。朝鮮戦争特需からの反動不況期で祝賀会は質素なものとなった。
 翌年、一二三は黄綬褒章を授章する。75歳。時の首相は鳩山一郎であった。授章を報道した新聞のなかに、次のような記述が見られた。「一人一業をモットーに工業立国を強調。地方中小企業の指導、援助につとめ、さながら私設中小企業相談所の観がある」と。

 個人商店から現代的企業へ。司が主導する行内改革は、父・一二三や古参行員のみならず、職員との軋轢も生む。
 1957年6月11日の閉店間際、数台のバスを連ねて300名以上の総評を中心とする市内の労働組合員が突如本店に押し寄せ、営業部、事務室はじめ各階の廊下まで埋め尽くし、労働組合の設立を迫った。3時間ほどの団交が行なわれ、翌日、自主的な労働組合が発足した。
 頭に「自主的な」という言葉がつくのは、戦後GHQの民主化政策で「労働組合法」ができ、まだ無尽時代の49年に労働組合がいったん結成されていたからだ。しかし、こちらはとくに活動を行なうこともなく自然消滅していた。

 7月1日、結成後の第1回執行委員会が行なわれ、「重大決議を議決した」と山口人司委員長以下10名が社長室を訪れた。
 緊張する重役陣を前に、巻紙に墨痕鮮やかに記された要望書は以下のような内容だった。

「社長は創業以来今日まで三十余年に亘り、出退勤については市内電車を利用され、身をもって勤倹』実行者となられているが、現在の交通機関の発達は昔日の比にあらず、危険が多い。社長は80歳に近い高齢であり、また当行のシンボルである。社長は個人にして個人にあらず。私たち行員のために、身の安全を図ることを切に願う。従ってここに組合員を代表して乗用車の常時使用を要望します」(要約)

 他の重役一人ひとりに意見を聞いてみると、皆乗用車に乗ることに賛成だという。ここに三十余年続いた「四島の一番電車」は終わりを告げることとなった。

(つづく)
【坂本 晴一郎】

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