1967(昭和42)年3月1日、前年に資金量1,000億円を達成した福岡相互銀行は、福岡証券取引所に上場を果たす。初値は70円。
この年、四島司が専務に就任し、彼の推薦により磯崎新氏が設計した大分支店が開店した。
そして1969(昭和44)年、四島一二三が会長に、司が社長に就任する。一二三89歳。司は44歳となっていた。翌年、磯崎新氏設計の新本店が、まだ閑散としていた博多駅前に着工される。ここには最新のオンラインシステム中枢が導入され1971(昭和46)年にオープンする。
こうした経営方針を主導したのは司であったが、やはりその背後には全国の銀行のなかでも最高齢の現役社長として威光を放つ一二三の存在があった。
司が打ち出す斬新な経営戦略に対して、時に衝突しながら、結果的にはそれを認め、後押ししていく。
「興産一万人」。福岡無尽創業の頃から掲げたこの信念には、金融業の本質は単に金勘定ではなく、必要とする人物へ資金を供給し、事業を支援、育成することにあるという一二三の思いが込められていた。
自身がそうであったように、強い意志と行動力で夢を実現していこうとする者に、チャンスを与える。その視線は、自然と身内にも向いていたに違いない。
いわゆる「ベンチャービジネス」あるいは「ベンチャー企業」という言葉がもてはやされるようになったのは1995年のインターネット商用解禁以降のことであると記憶するが、戦後期の日本もまたベンチャー隆盛の時代である。ソニーやホンダを始め、多くの企業が町工場から世界企業へと羽ばたいていった。
九州においても徒手空拳のなか一二三に支援を受け、恩人と仰ぐ経営者は多い。もちろん中には失敗もあったが、一二三が常々語っていたのは「七転八起」転じて「九十九転百起」の精神であった。これは一二三自身が自分を励ました言葉でもある。
七転八起は昔の諺である
現在は九十九転百起の大器晩成の時代なり
天に声あり曰く
汝は百回の失敗に屈服し精神的死者となり
汝の子々孫々に恥を贈遺することは絶対に罷りならんぞ
これを具体的に表していたのが、西新に建てられた四島邸の壁だった。ジグザグの造りで段が八段になっており、七転八起を示している。
この塀に囲まれた家を、一二三は「二宮佐天荘」と名付けた。以下の四人の徳性にあやかりたいと願ってのことだ。
勤倹貯蓄の神 二宮尊徳殿へお願い申す
願わくば私を 勤倹立国達成挺身の実行者たらしめ給え
勇気の神 宮本武蔵殿へお願い申す
願わくば私に 必勝不屈の勇気と更に胆力を与え給え
犠牲の神 佐倉宗五郎殿へお願い申す
願わくば私に 水火も辞せぬ義民精神と実行力を与え給え
約束死守の神 天野屋利兵衛殿へお願い申す
願わくば私に 約束は死守する強力なる責任感と
古今無比の忍耐力を与え給え
百道の海岸に通じるこの二宮佐天荘には孫たちも度々訪れた。畑仕事や山羊、鶏の世話をし、時には井戸も掘る一二三の姿は、孫たちにとっては親しみやすいお爺ちゃんに他ならなかった。
団らんの場では、アメリカでの冒険談や人生の教訓などを、幼子にもわかりやすいよう話してくれた。人生にとって大切なことは何か。若い頃実際に触れたアメリカ人の生活や考え方。自らの失敗やその教訓。
そして、近所の人や若い行員らに対して、決して威張ることなく、平等に接する一二三の姿も間近に見てきた。家の裏庭に行員の社宅やテニスコートを作り、海水浴やテニスを終えて帰ってきた行員が入る風呂を、一二三自身が湧かしていた一時期があった。
一二三の顔を知らない若い行員が「じいさん、風呂がぬるいぞ」と文句をつけ、一二三はそれに応じて「はい、はい」と薪をくべたという「事件」もあり、一二三自身笑ってその話をしていたという。
戦場とも言える経営の修羅場を離れると、そういう茶目っ気たっぷりの老人であり、孫たちにとっては憧れと畏敬の対象、そして愛すべきお祖父ちゃんだった。
自身の子供である司らに対しては、どちらかというと放任というか、自主性・自立性を重んじた一二三であったが、孫たちに対しては、知らず知らずに「英才教育」「帝王学」を施していたのかもしれない。
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