6,434人が亡くなった阪神・淡路大震災からこの1月17日で19年が経つ。この間、仮設住宅などで起きた孤独死者は800人を越えた(「赤旗」は昨年同時期で1,100人を超したと報じている。これは「孤独死の定義」の差による)という。大震災の後遺症は相変わらず残されたままだ。これは東日本大震災後に建てられた仮設住宅でも同じような状況が続いている。わたしの身の回りでもこの2年間で知人3人が孤独死した。わたしは彼らの死の直前に居合わせ、同じようなセリフを吐いてる。「このままではあなたは死ぬ」と。
孤独死という言葉を初めてマスコミに発表したのは、阪神・淡路大震災の仮設住宅で「クリニック希望」を開設し、住人の健康をバックアップした医師の額田薫氏である。氏は著書『孤独死』のなかで、「孤独死とは単なる『独居死』ではない。貧困の極みにある一人暮らしの慢性疾患罹病者(アルコール依存症も含めて)が、病苦によって就業不能に追いやられ、次いで失職により生活崩壊という悪性の生活サイクルに陥り、最終的には持病の悪化、もしくは新たな疾病に合併が引き金となって死に追いやられるケースがあまりにも多いという」「"孤独死"というのは、いかにも突然死のように世間から受け止められがちだが、実際には自殺などの例外を除けば、慢性疾患によって長い間苦しみ続けた帰結である場合が圧倒的である」「そんな彼らが震災後、完全に職を失った。時間をもてあますように日々に酒への傾斜が強まっていった。すでに独居、傷病、貧困というサイクルに巻き込まれかけていた上に、ついにはアルコール依存症という慢性疾患によって自堕落な生活に陥り、この書でいうところの『孤独死』という生命の危機を迎えたということである」。そして額田氏は、こうした孤独死を「緩慢な自殺」と表現した。
孤独死については、ここで何度も報告した。今回は身近な人たちの孤独死だったため、その共通した要因に驚きと寂しさを禁じ得ないのだ。具体的に報告したい。
その人、仮に田中一郎(60歳代半ば)さんとしよう。田中さんと思わぬ出会いをしたのは昨年暮れであった。近くにある市営住宅の給水場前で自転車を引いた男性が腰を下ろしていた。遠くから見ると、問題のない光景なのだが、近くに寄ってみて違和感があった。自転車の荷台には、商売道具の空気入れがチューブで括り付けられている。田中さんの前に、警察官と女性(この人もわたしの知人)が心配そうな顔で田中さんを見守っている。田中さんだと知ってわたしは声をかけた。
ところが、田中さんの返事がしどろもどろなのである。「セイユーで酒を買いたい」を繰り返すばかり。なのに、その場を立ち上がれない。明らかに異常である。田中さんとは挨拶を交わす程度で非常に親しい間柄ではない。でも、会えば話をした。
田中さんはギタリストである。スタジオミュージシャンをやり、バーやスナックで酔客を相手に歌の伴奏を付けたりで、それなりの収入があった。晩婚だったが奥さんとの間にふたりの子どもにも恵まれた。しかしリーマン・ショック後の不況で仕事が激減。仕方なく自転車のパンク修理業で糊口をしのいでいた。故あって1年ほど前に離婚。愛児とも引き裂かれた。その頃から酒量が増えたらしい。
やがて手元が震えだし、パンクの修理に2時間もかかるようになると顧客を失った。一度、田中さんに生活保護の申請を勧めたことがある。しかし田中さんは頑なに申請を拒んだ。ミュージシャンとしての矜持が邪魔をしたのだ。寂しさを飲酒で紛らわした。あるとき機を見てわたしは忠告した。「このままではあんたは死ぬよ。生活変えないと、死ぬよ」。田中さんは笑うだけだった。
<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)
1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務ののち、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ二人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(近著・講談社)など。
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