9日投開票された東京都知事選は、自民党と公明党が支援する舛添要一元厚労相の圧倒的な勝利で終わった。かつて日本新党ブームを巻き起こした細川護煕元首相が、小泉純一郎元首相とタッグを組んで脱原発を訴えたが、共産党が支援した宇都宮健児氏にも及ばなかった。
元首相連合が敗退し、3位に甘んじるという異常事態。まさに「晩節を汚す」とはこのことを指すのだろうか。
細川氏の敗因は何か。
<準備不足の「後出しジャンケン」>
まずは戦略の不足である。都知事選は石原慎太郎氏が当選して以来、「後出しじゃんけん」と言われてきた。細川氏が出馬の記者会見を行なったのは、告示日前日の1月22日。まさに究極の「後出しじゃんけん」だったが、その理由は準備不足だ。細川氏が出馬を決断したのは1月14日。小泉氏とホテルオークラで食事した時のことだった。
だが、初めから「色気」がなかったとは思えない。昨年10月、すでに民主党が触手を伸ばしていた。海江田万里代表と細川氏が都内で会っている。同席したのは荒井聡衆院議員と金成洋治氏。荒井氏は、今は民主党だが1993年の衆院選では、日本新党から出馬して初当選を果たしている。金成氏は同党の立ち上げに参加した細川氏の「側近」と言われる人物だった。この時、海江田氏から細川氏に都知事選に出てくれるように要請があったが、細川氏は首をたてにふらなかった。民主党の応援だけでは勝てないと見込んだのだろう。
その後、小泉氏と会って脱原発で意気投合し、急速に出馬へ意思を固めた。細川氏が頼みとしたのは、あくまで小泉氏の人気、そして日本新党ブームを起こした自分の人気だけだったのだろう。
<人材不足の選対体制>
どういう選対を構成するかについては放置した。選対責任者には上智大学の後輩である馬渡龍治氏を任命し、全てを任せている。
馬渡氏は鳩山邦夫氏の秘書を長年務め、何度も選挙を経験している。だが自分の選挙はあまり強くない。2005年の郵政民営化選挙で一度勝っただけだ。その馬渡氏は「お金のかからない選挙」を目指し、組織選挙を否定した。組織選挙はお金も人も必要だが、通じた人間が統率するメリットがある。
ところが馬渡氏が連れてきたスタッフが悪かった。偽HP騒動や小泉氏の偽ツイッターアカウント騒動が起こったのも、彼らが勝手にやった結果だと言われている。ちなみに偽物とされたHPを事後に「本物だ」と追認したのは馬渡氏だった。それでは選挙は戦えないと、細川氏に近い人たちが1月27日に選対責任者を一新した。それにともない、問題があるとみなされたスタッフも解任した。ただし「追放」とはしなかった。「これからも自由に選挙を手伝ってほしい」と伝えられたのは、「下手にネガキャンでもされたらたまらない」との懸念があったからだ。それでもネガキャンは行なわれた。もっともネットの範囲だったので、大勢には影響は大きくない。ただぞっとしたことがある。
2月2日、銀座で細川氏の街宣が行なわれた。その直前に安倍晋三首相が参加した舛添陣営の街宣が行なわれており、「天下分け目の合戦」と言われ、いずれも大盛況だった。それを遠くからじっと見つめる目があった。解任されたスタッフのひとりだった。その目は恨みと敵意に満ちていた。
不手際はこればかりではない。投票日の数日前に、ポスターの貼り直しが行なわれた。それまでのポスターは背景が黒だった。それでは暗いというので、赤に変更された。だが細川陣営のシンボルカラーは緑のはず。ちぐはぐ感が否めない。
もっとも致命的だったのは、地上戦を軽視したことだろう。選挙戦当初は、細川氏は午後しか街宣していない。ようやく中盤以降は朝の辻立ちも始めたが、「通勤する人は立ち止まって演説を聞いてくれないので、候補者が朝の街宣を嫌がっている」という話も出た。有名人の支援も役にたたなかった。湯川れいこ氏らは「脱原発で候補を統一しなければいけない」と、多くの票を獲得しそうな細川氏の支援を開始したが、結果は宇都宮氏の方が獲得した票数が多かった。見当違いの人たちが陣営に入り、かき混ぜたというのが事実である。
<舛添陣営――きめ細かな選挙が功奏す>
これに対して舛添陣営は、戦略をきちんとたて、実行していった。小さな駅前で20人から30人の有権者を相手に辻立ちし、地元に根差した政策を演説に取り入れた。一見して非効率に見えるこのやり方は、実はもっとも効果がある。ローラー作戦と呼ばれ、すみずみまでいきとおりやすい。
その背後にいたのは、選挙コンサルタントの三浦博史氏だ。三浦氏は石原氏の東京都知事選や森田健作氏の千葉県知事選を手がけ、勝利に導いている。細かな戦略に定評がある。
その三浦氏は、細川氏の街宣を欠かさずに偵察し、聴衆の反応などを観察していた。一方で、舛添氏には、各辻立ちで強調すべき点を個別にアドバイスしたという。そうしたきめ細かい積み重ねが、舛添氏の勝利に繋がった。ちなみに舛添氏自身は参院比例区の経験しかなく、決してきめ細かな選挙ができる人間ではない。本人に任せると細川氏流の選挙に流れる危険性があったのだ。
細川陣営にはこうした人材に欠いていた。その役割を演じようとした輩は、すでに解任されていた。もっとも彼らが解任されなかったとしても、うまくいく保証もなかった。
<大雪の最終日、有権者への思いやり欠く>
細川陣営に戦略不足以上に問題だったのは、有権者に対する思いやりが感じられなかったことかもしれない。
選挙戦最終日の8日、東京には大雪警報が発令された。4位を走る田母神陣営は、街宣に来ようとする人たちに無理しないように訴えていた。ところがその配慮は、細川陣営には見られなかったのである。夜から大嵐になると言われていたにもかかわらず、新宿東口で行なわれた街宣は、けっこうな数の聴衆が集まった。ただみな傘をさしているので、正確な数はわからない。ボランティアの女性が言った。「2,000人はいません」。だがこの天候で、2,000名近くも集められたらたいしたものだ。最終日は、候補者は午後8時にマイクを置く。それから街宣車を降りて、聴衆と握手などをする。小泉氏や細川氏と身近に接する絶好のチャンスでもある。これを目当てに、雪をかきわけてやってきた人も少なくなかったはずだ。
ところが、7時30分に小泉氏が演説を終えた後、何もないままに終わってしまった。正しくいえば、小泉氏の演説の後、聴衆から小泉コールが自然発生的に沸き起こった。「小泉、小泉!」。だが、彼らは細川氏の名前を呼ばなかった。
街宣車の上には誰もいなかった。間もなく1台の車が女性数名を乗せて、「東京都知事選は細川護煕をどうぞ宜しく!」と絶叫しながら走り去った。最終日の盛り上がりを欠いたまま、聴衆たちは置き去りにされたのである。それでも10分ほど聴衆は立っていたが、やがて雪が溶けるように去って行なった。後には選挙とは無関係に、新宿駅前で待ち合わせしている人たちが残った。怒りもなければ期待もない、そうした印象だった。
それが3位という結果になったのだろう。
細川氏のみならず小泉氏にも、かつての神通力はなくなっていた。小泉氏が存在感を示した95年9月の自民党総裁選との違いがある。当時は橋本龍太郎氏が圧倒的に強く、誰も対抗馬として出馬することができなかった。そのなかで「それでは自民党はダメになる」と自ら負けることを覚悟の上で手を挙げ、ドン・キホーテの名に甘んじたのが若き日の小泉氏だった。今回の都知事選で小泉氏が出馬していれば、もっと票が伸びたのに違いない。自民党も公明党もやりにくかったのではないか。だがドン・キホーテを演じたのは細川氏で、小泉氏ではなかった。自ら敵に挑むことのない小泉氏に、もう何も魅力はない。有権者を甘く見たツケは、今後払われることになるだろう。
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