アメリカ仕込みの「獅子の精神」を、息子の司も良く受け継いだ。若い頃はなにかと反発することも多く、そもそも事業を継承する気がなかった司だが、結果的には家業的経営であった福岡無尽を再構築し、現代的経営に移行させたのは司の手腕に負うところ大であったことに異論を挟む人は少ないだろう。
エディプスコンプレックスのなせる技か、司の生活スタイルは一二三のそれとは対照的である。日暮れとともに床につき、夜明け前に起き出していた一二三に対して、司は朝帰りも日常茶飯事であった。若い行員に対し禁酒、禁煙を推奨(初めは強制に近かった)していた一二三にとっては、面目丸つぶれといった感もあっただろう。
後に司は「文化」というキーワードを経営の特色として打ち出す。現代美術に造詣が深く、シルクロードへのツアーを主宰してリフレッシュを図るなど、銀行経営者としては異彩を放っていたことは間違いない。この点は一二三譲りだろうか。
一二三のストイックな生活ぶりは、「命より大事なお金を預かる銀行家は、何よりも信用が大切」という信条からのものだったと考えられる。手数料などから得られる利益は会社の金であり、そこからの報酬は自身の財産であるが、預金はあくまでも「人様の金であり、自分や会社の金ではない」というケジメを重視したのである。
この「金銭感覚」は融資先へも当然向けられた。「興産一万人」を掲げ、商都博多の商工業者(それはもっぱら中小零細業者が多かったが)へ事業資金を提供したが、一二三はまず融資先の「手」を見たという。ごつごつして労働をいとわない暮らしが見られる手の持ち主へは思い切った融資を行った。
だが「事業を興すのは易いが、それを続けることは難しい」のは今も昔も変わらない。中には失敗もあるわけだが、一二三は「九十九転百起」を提唱した。何度転ぼうがくじけずに起き上がれば、最後には勝者となる。この信念こそが事業家にとって何よりも求められる資質だと考えた。ピンチに強い。ピンチに負けない。裏を返せば「再起不能な失敗を防ぐ」という危機管理の思想は、アメリカ滞在時代幾度か生死の縁を乗り越えた一二三ならではの人生観であったろう。
またいかに偉大な成功を収めようが、大事を成し遂げようとすれば長生きしなければならない。死んだら負け。節制の裏にはそうした計算もあったようだ。
ドライな司に対し、一二三は情の人であったというイメージが定着しているようだが、こうして見ていくと、実は一二三は非常に現実的かつシビアな経営哲学を持っていたのではないかと思える。古参社員を切り、新しい経営スタイルを取り入れていった若き日の司だが、文化的な活動へ傾倒していく姿から「感性の経営」という印象も受ける。語弊を恐れず言えば、一二三は父性的であり、対して司は母性的であったのではないか。
どちらが良いという結論を導こうというのではない。この親子が経営のトップとナンバーツーに居た時代は、相互が補い合い、ある意味福岡相互銀行の黄金時代であったのかもしれない。
一二三の長女、和子の二人の男子、すなわち榎本一彦、重孝兄弟のそれぞれにこうした面は引き継がれているように思える。
大胆に経営判断を部下に委ね、キャナルシティや不動産リート事業などを果断に成功させていった一彦氏の辣腕を支えるのは、最終的な決断を下すにあたっての非常にシビアな計算であり、また若くしてブラジルに渡り長年現地で苦労しながら事業を行い、帰国後は福岡シティの屋台骨を揺るがした九州リースの再建を果たした重孝氏には、火中の栗を拾う情の精神を感じさせられる。
司自身も「一彦くんは、夢を追う『攻めの経営者』です。重孝くんは、和を重んじる人情味のあふれる経営者です」と語っている。(『四島司聞書 殻を破れ』より)
幼い頃から祖父である一二三と、叔父である司を見てきた二人が、自らも気付かぬうちに身につけた経営者としてのスタイルなのかもしれない。そして一二三と司がそうであるように、以心伝心、二人のバランスが、うまく補いあっているのが現在と言えるかもしれないのだ。その根底には、ひるまず、恐れず、何事にも挑み続けるという「獅子の精神」が刻まれているはずだ。
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