元福岡シティ銀行頭取の四島司氏は二人の甥を可愛がり、一二三が司に対してそうであったように、大胆な挑戦を見守り、後押ししてきた。その恩恵のみで今日の隆盛があるわけではないが、大きな支えであったことは間違いない。
一二三は87歳まで現役社長を続け、司が44歳の時にその座を譲った。昭和44年のことである。ちょうど榎本一彦氏、榎本重孝氏が大学を卒業し、社会人生活をスタートした時期と重なる。
榎本一彦氏は昭和41年に慶應大学を卒業し日本不動産銀行(後の日本債権信用銀行、現あおぞら銀行)に就職。5年間勤務した後福岡相互銀行に入社し福岡地所へ。昭和54年に同社社長に就任した。
また3歳違いの弟、榎本重孝氏は、司の指示で28歳の時ブラジルに渡り、14年半に亘りサン・ジョゼ・ドス・カンボス市西部ウルバノーバ地区の都市開発を手掛けた。同市の中心部にある幹線道路には「四島一二三・アベニュー」という名がつけられている。重孝氏のブラジル行きが決まったとき、祖父の一二三は「自分も若いとき、アメリカに行くかブラジルに行くか迷ったんだ」と孫のブラジル行きを喜んだと言う。
1996(平成8)年4月20日、バブル崩壊後の苦難を経てキャナルシティ博多が開業した日、兄弟の母である和子さんが「お父さん(一二三)に見せたかったわね」と一彦氏につぶやいたそうである。
単に父や弟(司)の支援を受けただけでなく、事業家としてその遺産を乗り越えた息子の業績を誇りたかったのだろう。
一二三の一生を語るとき、妻として常に支え続けたカツミ夫人の功績を抜かすことはできない。一二三のみならず、家族を支え続けた。一族にとってのゴッドマザーである。現在に至る結束の要の役割を果たしてきた。そして父・一二三と母・カツミの姿を最も良く知るのが和子氏であったとも言えるだろう。
この和子氏と親友とも言える間柄だったのが、ロイヤル創業者・江頭匡一氏の妻である憲子氏だ。実家は整形外科医院で、母親の水野咲子氏が西日本無尽と付き合いが深かった。江頭氏が事業家として創業する際資金を融資したのが西日本無尽で、また日航の機内食を足がかりに本格的な外食ビジネスを展開する際には融資を願い出るために一二三の元へ日参したと言う。一二三の後押しによりロイヤルは外食業を日本で初めて産業へと発展させる。
そういう縁から、和子氏の夫で福岡相互銀行の常務などを務めた榎本重彦氏はロイヤルの大株主となり、また一彦氏も長く社外取締役を務め、会長職に就いたことは周知の通りだ。
榎本重彦氏は、日米コカ・コーラボトリング(後の北九州コカ・コーラボトリング、現コカ・コーラウエスト)の経営にも同社役員として深く関わってきた。
戦後、北部九州でのフランチャイズを受けようとしたのは、パチンコ店などを経営する実業家の佐渡島匡男氏であったが、これに日本コカ・コーラが難色を示し、伝手を頼ってリコーの市村清氏を社長として担ぎ出した。しかし交渉の最終盤に大型の信用保証を要求。これに応えたのが一二三であり、福岡相互銀行がメインバンクとなった。
アメリカの本社も交えた交渉の際、英語にも堪能な一二三の存在は同社設立に大きく寄与したと言われている。
その後同社は大きく発展していくが、実質的に経営を切り盛りしたのは榎本重彦氏に依るところが大きかったと言われている。
リコー三愛グループ(理研グループ)に属する同社は、山陽コカ・コーラボトリングなどと合併を重ね、今や近畿・中国・北部九州をエリアに収め、ザ コカ・コーラ カンパニーからの直接出資を仰ぐなど飛躍的な成長を遂げている。
外食産業という新しいカテゴリーのパイオニアとなったロイヤル。そして戦後資本主義の象徴ともなったコカ・コーラのボトラーとして西日本を制したコカ・コーラウエスト。その創設を後押ししたのが一二三であったことは単なる偶然ではなく、アメリカの文化や産業に身を以て触れてきた経験の為せる技であっただろう。
その恩恵は時を超え、榎本氏に大きな財産を残すことになる。
一二三を祖とする四島家・榎本家の結束は、「元気な都市・福岡」の発展に大きな功績を残してきた。これが今後どのような軌跡を描いていくのか?「獅子の精神」は継承されていくのか?
「祖先に対する最上の祭りは、道を守り業を励むにあり」の格言とともに、墓の中からじっと見守っているに違いない。
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