昨年12月25日、隣接するURの空き店舗を利用して、ついに「サロン幸福亭」をオープンさせた。敢えて"ついに"と表現したのは、オープンまでに5年という年月を費やしたからだ。わたしにとって5年はさすがに待ちきれない時間だった。少しばかり長くなるがお付き合い願いたい。この長さのなかに、高齢者が現在置かれている諸問題、行政の取り組みの問題、UR(旧公団・都市再生機構)の変化、住民の意識・取り組みとリーダーの存在理由などがミルフィーユのように重なり合ってのしかかってきたからだ。2回に渡り検証したい。
話は05年夏にまで遡る。わたしの住んでいる公的な住宅で、2件の孤独死者を出した。当時自治会の役員だったわたしは、会長に「孤独死は自治会としてもゆゆしき問題で、恥なのでは」と進言した。ところ、「それは行政と坊主の問題」として相手にされなかった。義憤の余り上梓したのがこの欄に再三登場する『団地が死んでいく』(平凡社新書)である。孤独死事件から3年後のことだった。
「大山さん、全国区のジャーナリストもいいけど、地域のジャーナリストも面白いですよ」と担当編集者に唆され、お調子者のわたしは「やってやろうじゃないか」と始めたのが「幸福亭」という高齢者の居場所作りだった。
簡単にはいかなかった。公営住宅なので、行政の担当課に出向き、「高齢者の居場所を作りたい」と申し出たところ、「それは実に大切なこと。先駆的な役割を担っていただきたい」と励まされ、団地の集会所を使う許可を得た。「集会所の管理を自治会に委託しているから一応断った方がいい」という担当課の助言に従って、当時の自治会長に「幸福亭」の開亭と集会所の使用を申し出た。
ところが、何を勘違いしたのか、月1回開かれる運営委員会(自治会の最高議決機関)に、都合3回呼ばれ、「開亭是非」の審議を強要されたのである。わたしは「高齢者の居場所」について理解を深めるチャンスと思い、審議に応じた。
3回目の審議時、「それでは幸福亭開亭の許可について、採決したいと思います」と宣する議長の言葉を遮った。「すでに行政、つまり大家の許可を得ている。集会所の管理を委託されている自治会に断りを入れるのが筋と思ったのだが、どうも誤解されているようです。お聞きしますが、拒否されると開亭はできないことになるのですか」。わたしの怒声に会場が静まり返った。遣る片無い思いのまま会場を後にしようとした時、「できるだけ協力しますから・・・」という会長の声を聞いた。幸福亭の開亭が認められたのである。実はこれが悲劇の始まりだった。イベント告知のポスターは剥がされ、機関紙『結通信』はポスティング直後に郵便受け前にばら撒かれるという状態が続いた。
高齢者の居場所というのは、孤立しがちな高齢者が気軽に立ち寄れる場所を指す。そのことは高齢者が行きたいときに開いている場所でないと意味がない。つまり高齢者にとっての居場所とは毎日開いていることが前提となる。ところが金銭的な援助をしている市の窓口の規定では、「月2回の開亭でOK」となっている。これでは居場所とはいえない。そこで、関係部署に対して、「街全体が高齢化して、孤立する人が増え、孤独死者も増加している。今のうちに空き家や空き店舗を利用して居場所づくりを加速させないと、街が疲弊する。そのためにも居場所が必要。資金的な援助をお願いしたい」と事あるごとに申請した。しかし、担当者の返事は、「まず、始めてください。それをみて支援の判断をします」という返事えあった。始める状況にないから支援を要請しているのに、この返事である。やる気がない。事実上拒否され続けた。
<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)
1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務ののち、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ二人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(近著・講談社)など。
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