2月22日は、島根県が条例で定めた『竹島の日』であった。いまだ解決を見ない我が国の領土問題だが、我々は、交渉を行なう前に、これまでの経緯を正しく認識しておかなければならない。今回は、北方領土と竹島をめぐる領土問題について、あらためて問題となるに至った経緯を解説する。
<発端は悲劇も生んだソ連の侵攻>
昭和20(1945)年8月9日、ソ連(現ロシア)は当時まだ有効だった「日ソ中立条約」を一方的に破棄して、対日参戦し満州に侵入した。そしてソ連軍は南樺太や千島列島に侵攻し、8月28日から9月5日までの間に、択捉、国後、色丹、歯舞の北方4島を不法占領した。これが北方領土問題の発端である。
南樺太では、日本がポツダム宣言を受諾しているにもかかわらず、ソ連軍は20日から真岡への本格的な攻撃を開始した。数隻の大型軍艦で町中に艦砲射撃を行ない、上陸したソ連兵は山へ逃がれる人々を背後から機関銃や自動小銃で掃射した。引き揚げ船へ向かう女性や子どもたちの上にも、砲弾は容赦なく降り注がれた。真岡郵便局に勤務していた9人の女性電話交換手が「これが最後です。さようなら、さようなら」と電話で伝えた後、青酸カリを飲んで服毒自殺するという悲劇が生まれたのもこのときである。
また、千島列島と樺太に駐留していた日本軍将兵は、武器をソ連軍に引き渡した後、本土に戻れるはずだった。しかしソ連は日本軍将兵全員を満州に駐留していた関東軍と合わせて60万人をシベリアへ強制連行し、労働などに従事させた。その結果、日本の土を踏むことなく約7万人が飢えと寒さで苦しみながら亡くなっていった。ソ連の行なったシベリア強制連行は戦闘法規違反であり、人道上も許されない行為である。
もし、千島列島・樺太での日本軍の頑強な抵抗がなければ北海道北部はソ連に占領され、北朝鮮や東ドイツ(ベルリンの壁が崩壊するまでの間)のように共産主義独裁政権の支配となっていたであろうし、満州や南樺太で起きた民間人虐殺がここでも繰り返されていたに違いない。
昭和26年9月、サンフランシスコ講和条約を締結し、翌4月に日本は主権を回復し独立を果たすが、この条約では南樺太と千島列島の放棄を余儀なくされた。ただし、この千島列島に北方四島は含まれていない。しかも、ソ連はこの講和条約に参加していないので、ソ連が南樺太と千島列島を支配する権利は有していない。忘れてならないのは、ソ連が領土不拡大の原則を謳った大西洋憲章に参加していることだ。ソ連の行為は明らかにこの憲章に違反している。
さらに、日本が受諾したポツダム宣言はカイロ宣言の履行も謳っており、カイロ宣言では「日本が奪取した地域を返還させる」となっているが、千島列島も南樺太も条約に基づいて日本領となったものであり、「奪取」した領土ではない。日本は北方四島に加えて、千島列島と南樺太もロシアに返還を求める権利を本来有しているのである。
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<プロフィール>
濱口 和久 (はまぐち かずひさ)
昭和43年熊本県菊池市生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、民主党本部幹事長室副部長、栃木市首席政策監などを経て、国際地政学研究所研究員、日本政策研究センター研究員、日本文化チャンネル桜「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、拓殖大学客員教授を務める。平成16年3月に竹島に本籍を移す。現在は、日本防災士機構認証研修機関の(株)防災士研修センター常務取締役。著書に、『思城居(おもしろい)』(東京コラボ)、『祖国を誇りに思う心』(ハーベスト出版)、「だれが日本の領土を守るのか?」(たちばな出版)。11月25日には、夕刊フジに連載中の企画をまとめた『探訪 日本の名城 上-戦国武将と出会う旅』(青林堂)を発売。公式HPはコチラ。
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